大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和36年(あ)2179号 判決 1964年3月03日

本籍

富山県高岡市中川原町三六番地

住居

同県同市中川一〇番地

機業兼木工製材業

荻布一郎

明治四四年一月五日生

本籍並びに住居

富山県高岡市中川原町三一番地

荻布機業場支配人

守越七蔵

大正三年一〇月三〇日生

右所得税法違反被告事件について昭和三六年八月二九日名古屋高等裁判所金沢支部の言渡した判決に対し被告人らから各上告の申立があつたので当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件各上告を棄却する。

理由

弁護人定塚道雄、同定塚脩の上告趣意第一点中判例違反の主張について。

論旨指摘の原判決の判示部分が、引用の昭和一六年一二月一八日言渡の大審院判例の趣旨と相反することは所論のとおりである。しかし、右判例は昭和三二年一一月二七日言渡の大法廷判決(昭和二六年(れ)第一四五二号、刑集一一巻一二号三一一三頁)によつて変更されたものであるから、所論判例違反の主張は刑訴四〇五条三号の上告理由として不適法である。なお、論旨引用の昭和一六年一〇月六日言渡の大審院判例は、法人が業務主体である事案につき、いわゆる転嫁罰規定たる旧職業紹介法一一条一二条の適用に関するもので、業務主体が自然人たる人である場合につき、両罰規定たる所得税法七二条一項の適用に関する本件とは事案を異にし、不適切と認められるから、右判例違反の主張は前提を欠き適法な上告理由に当らない。

同第一点その余の論旨および弁護人定塚道雄の上告趣意補充書(二通)による上告趣意について。

所論は、先ず所得税法七二条一項に関する原判決の法律解釈は法条の文言を無視し、立法者の意思を離れた誤れる解釈で、罪刑法定の原則を定めた憲法三一条に違反すると非難する。しかし、前掲大法廷判例の趣旨に徴すれば、所得税法七二条一項による事業主たる人の刑事責任の本質は過失責任であつて、同条はその過失を推定した規定と解するのが相当であり、原判決もこれと同趣旨に出ており、その法律解釈は相当であつて、これに所論のように不当な解釈があるとは認められない。所論違憲の主張はその前提において失当である。そして右規定による事業主たる人に対する処罰の根拠を過失責任と解すべきである以上、この解釈と反対の見解をとり、右規定を事業主の無過失責任を定めた規定と解し、それが刑法の責任理論に反する無効の規定であるとして、同条項の適用により被告人荻布の処罰を肯認した原判決の違憲をいう所論もまたその前提において失当であつて採用できない。さらに、所論は、原判決は右被告人に対し証拠に基づかず、単なる推定によつて処罰することを肯認したもので、右は証拠裁判の原則を定めた刑訴三一七条に違反し、ひいては適法手続を保障した憲法三一条に違反すると主張する。しかし、原判決は従業者たる被告人守越の本件所得税法違反の犯罪事実を証拠に基づいて確定し、これを基礎として被告人荻布の事業主としての過失を適法に推定して同被告人の刑事責任を問うておるものであり、その推定が合理的根拠に立つ以上、所論のように証拠によらず有罪を認定したといえないことは勿論である。したがつて、所論刑訴法違反の主張は理由がなく、所論違憲の主張は、その前提において失当であつて採用できない。

同趣意第二、第三点について。

所論は、事実誤認、訴訟法違反および量刑不当の主張であつて、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。また記録を調べても同四一一条を適用すべきものとは認められない。

よつて同四〇八条により裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石坂修一 裁判官 五鬼上堅磐 裁判官 横田正俊 裁判官 柏原語六 裁判官 田中二郎)

被告人 荻布一郎

同 守越七蔵

弁護人定塚道雄、同定塚脩の上告趣意

第一点、判例違反

原判決「控訴趣意第三点について。」以下の記載は、刑事訴訟法第四〇五条第三号の判例と相反する判断をしたこと、に該当する。

左記大審院判例(判例集二〇巻二四号七一三頁以下)は、本件の所得税法七二条一項と全然同一文言なる国家総動員法四八条に関するものであるが、両罰規定に関するこの判例は現在までくり返えされ、維持せられてこそいるが、絶対に変更せられていない両罰規定判例であると共に、両罰規定の前記条文についての当然自明の解釈を示しているものである。

昭和一六年一二月一八日大審院第二刑事部判決、破毀、大審院判例集二〇巻二四号七一三頁

按スルニ国家総動員法第四十八条ニ依リ従業員カ同条列挙諸法条ノ違反行為ヲ為シタル結果其ノ主人カ処罰セラルル場合ニ在リテハ該違反行為ノ遂行ニ付主人ノ行為乃至意思ハ何等介入セス単ニ行為タル従業員ノ違反行為ニ付主人トシテ従業員ト同一罪責ノ下ニ処罰セラルルモノナルコト同条ノ法意ニ照シ疑ヲ存セス

右の判例は、犯行につき主人(荻布一郎)の行為乃至意思は少しも介入しないもので、単に、直ちに行為者たる従業員、使用人(守越七蔵)の違反行為につき、主人(荻布一郎)として同一罪責を生ずる法意なれば、処罰法条も従業員使用人(守越七蔵)と同一法案によるほかないものである、と言つているのである。

しかるに原判決は、

『よつて考察するに、所得税法第七十二条第一項は事業主たる人の代理人、使用人その他の従業者が同法第六十九条等に違反した行為に対し、事業主に右行為者等の選任、監督その他違反行為を防止するために必要な注意を尽さなかつた過失の存在を推定した規定と解するのが相当であるから、両罰規定をもつて、故意過失もない事業主をして他人の行為に対し刑責を負わしめたもので刑法理論上許されないものであるとの前提に立脚する所論は、その前提において既に失当である。のみならず、事業主たる被告人荻布一郎において、被告人守越七蔵の本件所得税逋脱行為に対し、事業主として右守越七蔵の選任監督その他違反行為を防止するために必要な注意を尽したことを認めるに足る証拠がなく、従つて被告人荻布一郎もまた刑責を免れえないことについては既に説示のとおりであるから所得税法第七十二条を適用して被告人荻布一郎を処罰した原判決には、いずれにしても所論の如き違法は存しない。それ故論旨は理由がない。』

と言い、過失責任を定めたものであると判示している。そして主人荻布一郎は過失責任規定による処罰がなさるべきであるとする。ところが、第一審判決は、過失責任の処罰はしていないで、前示判例その他多数判例の通り、無過失刑事責任を科していること明らかである。また、原判決の見解に従い刑事過失責任とするならば、刑法三八条一項、

罪ヲ犯ス意ナキ行為ハ之ヲ罰セス但法律ニ特別ノ規定アル場合ハ此限ニ在ラス

の特別規定がなければならぬのである。しかるに、所得税法七二条の如き両罰規定を以つて過失犯処罰の特別規定とみることは全く不可能である。前記判例は、これら両罰規定は、過失刑事責任をみとめた特別規定でないのみならず、犯意故意の存在を要求する刑法三八条一項と全く関するところがない法規であると言つているのであり、それが正当な法意であると断じているのである。

原判決は前示の如く過失推定規定であるといつているけれども所得税法七二条は、「法人の代表者(第一条第六項に規定する法人でない社団又は財団の管理人を含む)又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務又は財産に関して第六十九条乃至第七十条の違反行為をなしたときは、その行為者を罰する外、その法人又は人に対し、各本条の罰金刑を科する」(第一項)と規定しているのであつて、これを本件の如く個人であつて法人に関連しない場合についていうと、右七二条一項は、

「人の代理人、使用人その他の従業者が、その人の業務又は財産に関して第六十九条等の違反行為をなしたときは、その行為者を罰する外、その人に対し、各本条の罰金刑を科する」

となる。すなわち、「荻布一郎の使用人守越七蔵が、荻布一郎の業務又は財産に関して第六九条の違反行為をなしたときは、その行為者守越七蔵を罰する外、荻布一郎に対し、各本条の罰金刑を科する」となる。

判例の解釈は、一応右法文の解釈をすなおに表明したものとするほかないであろう。

ひるがえつて、原判決は簡単に過失責任と断定するけれどもそもそも、過失というもの、原判決を引用すれば、「違反行為を防止するために必要な注意をつくさなかつた過失の存在」「事業主として……必要な注意」という必要な注意というものは、犯意、故意と同じく自然人の心理作用であつて、自然人以外にはこれを有し得ない心理過程、心理作用、心理そのものなのである。しかるに、すべてのあらゆる両罰規定は、「人」のほかに「法人」を規定している。法人には心理も心理作用もない。心理過程のない法人に心理作用を推定することは不可能で心理がないということを知りながら、推定し、推定に基いて処罰するという結果になる。そんなことが許される道理がない。

この一点からみても法解釈を誤つていること明らかといえよう。本件は、たまたま心理作用を有する「人」すなわち自然人荻布一郎の場合であつたから、原判決を読んで不自然と感じないで読みすごす人があつたとしても、一般には、法人処罰の問題であり、ここに思い及ぶならば、原判決の判例違反は明々白々となる。所得税法七二条は、決して選任監督につき権限を有する法人の機関たる個人の刑事責任を規定したものではなく、法人そのものの処罰を規定したものである。「人」の場合のみ過失責任で、「法人」の場合は然らずというならば、それは、法条の無理無態な、勝手な解釈といわねばならぬ。

日本国憲法の条項は、明確に罪刑法定を厳守すべきことを命じている。今日のわが国民の自由は、これら憲法条項によつて存在している。いやしくも、人を刑罰に処せんとするに当つては、厳格に法条に基かねばならぬ。原判決の解釈は、法条の文言を勝手に無視している。立法者の意思からほしいままにはなれ、法律の根拠なくして刑罰を創造できるという、危険な思想を現わしている。無罪の方向に対してならとに角、有罪の方向に対して法文に根拠のない、ほしいままの解釈は絶対に許されないと思うが、いかがであろうか。判例違反と同時に憲法違反を主張する所以である。

なお、附記したいのは、本件は行政罰に関するものではなく、刑罰に関するものであること、行政法の問題でなく、刑法の問題であること、刑法八条により特別刑法についても、刑法総則すなわち刑法三八条一項の適用あることである。刑罰である以上、刑法学者の所説を無視して、行政法学者の所説によるならば重大な誤りと危険におち入る性質の問題である。本件の如き、仮りに両罰規定による処罰の必要あるものとするならば、(私は絶対に処罰の必要なしと断言する、断言できる)、行政法上の秩序罰を規定し、刑法総則や憲法規定と関係なく問題の解決をはかるべきである、という所論があり得るであろう。これは、刑法から行政法へ移すべし、刑罰から秩序罰へ移すべしという完全な立法論であつて、この際採り得ないものである。本件は刑事事件であり、刑法九条の刑罰を科するや否やのみで、所得税法七二条は刑罰を規定した特別刑法で、刑法総則の支配を受けるという、厳たる客観的事実を前提として、問題とされるのみである。

原判決は荻布一郎を過失推定規定によつて処罰したと主張するのであり、第一審判決は然らざるにも拘わらず、第一審判決も推定規定により刑罰を科したものだというのである。すなわち、荻布一郎は推定規定があるから、証拠なくして処罰し得ると断定している。しかしながら、全く刑事訴訟法に則らないで判決することは憲法違反である。憲法三一条の「法律の定める手続によらなければ刑罰を科せられない」との規定に違反している。憲法三一条に含まれる大原則として、刑事訴訟法三一七条は、「事実の認定は、証拠による」と定めているが、原判決は、推定による処罰を肯認し、証拠なくして荻布一郎を処罰してよいとしているので、この法条に反し右憲法三一条の解釈を誤り所得税法七二条の如き何ら証拠裁判主議の例外とならないものを例外なりと解釈して、証拠によらない有罪判決を行つている。右刑訴三一七条の如きは、裁判の公正を確保するのに本質的と考えられる重要な規定で、従つてこれは憲法三一条の違反となると解すべきである(平野、一七〇頁、高田卓爾、刑事訴訟法五六六頁以下)。反証をあげない限り有罪の推定をする、反証をあげないから、証拠がないけれども有罪とする推定がある、という。刑事司法においては全く容認されない理論ではなかろうか。この場合民法その他の私法や行政法をもつてくることは、憲法、刑事法の強く拒否するところである。

従来の判例はこれと異り、大審院判例によれば、両罰規定というものは「株式会社ノ代表取締役カ会社ノ業務ニ関シ会社従業員ノ為シタル同法違反行為ニ付テハ自己ノ指揮ニ出テタルト否トヲ問ハス其ノ罪責ヲ免レサル趣旨ナリト解スヘキモノトス」(昭和一六年一〇月六日大審院第二刑事部判決、法律新報(集)八輯三六号一二二二頁)とし、刑事未成年の事業主(人)も、従業者の行為につき両罰規定の責任を負う(昭和一三年九月三〇日刑事局長回答)ものとしているのであつて、原判決のいうように、事業主に選任、監督(刑事未成年者にはできない)や、犯罪防止(右判例の指揮を要する)のできることが前提となつている規定ではない。原判決が従前の判例に反するものであり、法文を無視したものであり、憲法と刑事訴訟法に反するものであることは明らかである。

第二点 原判決には刑事訴訟法四一一条第三号の判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があつて原判決を破毀しなければ著しく正義に反する。

原判決は、控訴審において当弁護人が、

「被告人荻布一郎の昭和二十七年分の所得は三十四万九千三百五十六円あつて、前年よりの繰越損失金百五十五万七千四百八十八円を合算すると、百二十万八千百三十二円の損失になり、また、昭和二十八年分の所得は全くなく、却つて十万五千三百八十二円の欠損であつたにも拘らず、原判決は昭和二十七年分の所得を五百四十六万六千四百八十九円、昭和二十八年分の所得を百六十二万八千二百七十八円とそれぞれ認定しているが、右は全く根拠がなく甚しい事実の誤認である。即ち、絹織物業界は他の繊維と異なり、昭和二十年の終戦当時から昭和三十年頃までの十年間にわたり終始不況をつづけ、昭和二十七年には極度の不況のため同業者中倒産転廃業するものが続出する状態にあつたのに、被告人荻布一郎の経営する機業場に関してのみ前記の如き収益が生じたということは極めて不合理不自然である。これは、昭和二十七年末に数年前から保有していた簿外糸が突然収益の変形とみなされたため、昭和二十七年だけ収益が生じたことになつて了つたものと思われるが、もともと右の簿外糸は昭和十八年企業整備令により荻布機業場が一部転廃を命じられて高岡市中川所在の中川工場を閉鎖した際、現存の同市中島町所在の中島工場に引き継いだものであつて、昭和二十七年及び昭和二十八年の収益ないし所得とは無関係のものなのである。」

と主張したと記載しながら、これに対し、何らの判断をしない、理由を示さずに第一審判決を容認した。

本件は所得税法違反であつて、納税者荻布一郎に昭和二七年分と昭和二八年分の所得があつたか、なかつたか、問題はそれだけである。それだけにつきるのである。絹織物業界は、右昭和二七年二八年を含む昭和二〇年から昭和三〇年まで不況をつづけ、どの業者も収益なく従つて所得税を納めていない。荻布一郎も同様である。しかるに、国税局のいう通りとすると、荻布一郎は昭和二一年に収益なく、昭和二二年に収益なく、昭和二三年に収益なく、昭和二四年に収益なく、昭和二五年に収益なく、昭和二六年に収益なく、昭和二七年に突如収益あり、昭和二八年に僅少の収益あり、昭和二九年に収益なく、昭和三〇年に収益なし、というのが正しい、ということになる。これは非常に不自然で、あり得ないことであり、殊に皮肉なことには昭和二七年は極度の不況で同業者中倒産者続出し、他の後援ある者多少の資力ある者も転廃業により危機を辛うじて免れる有様で、荻布一郎にのみ収益のある状況は全くなかつた。荻布一郎が他の同業者と異り何らかの収益があり得る状況があれば別であるが、それは全くなかつた。倒産を奇蹟的に免れたのみで、老朽設備のため転廃業も不可能であつた。以上の凡てにつき、法廷に十分な証拠が現われて居り、これを否定する証拠は一つもない。皆無である。然るに、原判決はこのことに一言もふれようとせず、一点の判断も示さない。ことは、荻布一郎に昭和二七年昭和二八年に所得があつたか、収益があつたかの一点にかかつているのに、それに対しては、完全に逃げて何も判断しないのである。

そして、弁護人が、どうしてこんな間違いが起つたかをしま憶測して、それは荻布機業場にあつた原料糸の数量が多いとみられて、収益の証拠はないが、収益を糸の形で存在せしめたとかんぐられているのではなかろうか、との案を出し、それならば、(1)それは幾何の糸量であつたか、(2)何故そのような糸量であつたか、この二点が明らかになれば、無罪の心証が得られるのではなかろうか、と申出たのを、ことごとく逆手にとつてしまつたのである。機業場で断えず動く糸量を争つてみても決らないから、(1)については、国税局(検察)の自分でした実地看貫、実地棚卸の数量を被告側も認めて、その上で脱税でないことを立証してみせる、と言つて審理を進め、検察の希望で鑑定となり、藤岡鑑定書は脱税なしとの鑑定を出したのに、検察側は反対の鑑定書も出さず、反対の鑑定人も申請せず、今更になつて、国税局の看貫を信用せずと、自ら提出した証拠から逃げるのである。(2)の点についても、中川工場が法令により閉鎖されたときに、法令により、官の措置によつて中島工場へ引渡された糸であることを明確に立証したのに、原判決はこれに対する判断として昭和一八年に入荷取得したこの糸量を、昭和二七年に取得したものとして所得の申告をせよという。無理な話である。原判決は昭和二七年の収益、取得でないものを、昭和二七年の収益、所得であつたと虚偽の申告をし、昭和二七年の所得税を納付すべきであると書いている。昭和二七年の所得がないから、ないと申告したのが、どうして詐偽または不正の方法により脱税したことになるのか、全く理解に苦しむ事実誤認である。

原料費について。原判決は全く会計原則を無視した。しかも無視したことに自ら気付かず、特に会計原則を無視したものでないと言つている。全く驚くべきものである。

(一) 荻布機業場は、昭和十年高岡市中島町三七番地において織機一〇〇台をもつて発足し、昭和十三年高岡市中川一〇番地に織機二〇〇台の工場を増設した。しかるところ、昭和十八年企業整備令によつて、右中川一〇番地の工場が転廃業を命ぜられたので、やむを得ず同工場を整理し、機械類は屑鉄として供出し、原糸、仕掛糸等は中島町三七番地の現工場へ引き継いだ。この時に引継がれた原糸、仕掛は合計約二百二、三十貫であるが、これがその後ずつと、荻布機業場の、いわゆる簿外糸として存在して来たのである。これは、その後荻布機業場における「含み資産」となつているのであるが、かかる「含み資産」の存在は商法講学上秘密準備金といわれるものに類似し、商法上は企業の健全化の見地から是認せらるべきもの、むしろ、企業安定のためには或程度奨励さるべきものとして取扱われていることは周知のとおりである。荻布機業場においても、この簿外糸の存在が、前記大不況の際に損失にあえぎながらも倒産をくいとめるのに役立つたのである。

(二) 然らば、かかる簿外分(含み資産)の存在は、税法の立場から、年間損益を計算する上においていかなる影響を与えるか。何の影響もないのである。以前から継続して存在する簿外分の存在は、年間の損益計算の上には全く影響しない。すなわち、原料費計算は、年間の買入原糸と期首の在庫とを加えたものから、期末の在庫を差引くことによつて得られるものであるところ、期首と期末に同量の簿外分が存在しても、それらは差引されて原料費としては全く変らない数値が得られるのである。仮りに期末在庫をA、期中買入量をB、期首在庫をCとし、原料費をM、期首、期末を通じて存在する簿外分をPとするならば、

簿外分を計算に入れない場合の算式は、

M=B+C-A (正しい原料費)

であり、簿外分を計算に入れた場合の計算は、

M=B+(C+P)-(A+P)=B+C-A (正しい原料費)

となつて、全く同一結果となる。

しかるに、この簿外分を従来は計算に入れないでいるのに或る年の期末あるいは期首のみに突如として計上することとすると、正しい原料費計算が狂つてくることとなる。

本件原判決並に検察官の主張するところは、まさにこの「狂つた計算方法」によつたものである。すなわち、特定の一時期のみにおいて簿外の一部を算入した数値を用いるという誤つた方法をとつたために、或年度には突如として莫大な利益計算となり、その前年或いは翌年には損失計算となる、というような不合理な結論を導き出すに至つたものである。これが、大きな誤りであることは言うまでもない。例えば、期末には簿外分を算入しない帳簿棚卸によつて在庫量を算出し、期首には簿外分を算入した実地棚卸(その他簿外分を含む資料)によつて在庫量を算出すれば、前記の算式は、

M=B(C+P)-A=B+C-A+P (Pだけ狂つた原料費)

となつて、その年間の正しい原料費は得られないこととなる。

(三) 機業場においては、期首、期末等一時期の在庫原料は、或いは原糸の形で、或いは仕掛品の形で存在する。そこで原糸、仕掛品を合算した重量で考えるのがもつとも適当である。

金沢国税局係員は、昭和二九年八月二四日突然荻布機業場に臨み、荻布機業場の在庫について精密なる実地棚卸を実行した(これは実地棚卸であるから、もちろん簿外分も全部算入される)。この実地棚卸の結果、

原料在庫量 二九五貫

であつた。この数字は、昭和二九年八月二四日当日の在庫実量として他のいかなる資料によつても動かし得ない数量である。原告の帳簿から算出される当日の在庫原料は

六八貫

であつた。従つて、右二九五貫と六八貫の差額二二七貫が当日における「簿外分」である。前記のとおり、荻布機業場では昭和十八年中川工場閉鎖当時からずつと継続して二百二、三十貫の簿外糸が存在したのであるが、昭和二九年八月二四日金沢国税局係員が実地棚卸をしたときまで、そのまま簿外として残存し、その数量は二二七貫であることが明瞭となつた。この二二七貫は、もちろん昭和二六年、二七年、二八年の各期首並に期末にも引続いて存在した。

荻布帳簿上の量 実量 国税局の算出量

昭和二六年期首 九八六貫 一、二一三貫 九八六貫

昭和二六年期末(二七年期首) 三九七貫 六二四貫 五八四貫

昭和二七年期末(二八年期首) 八二貫 三〇九貫 三四九貫

昭和二八年期末 一三八貫 三六五貫 五二〇貫

昭和二九・八・二四 六八貫 二九五貫 二九五貫 (貫以下切捨)

各年度の「帳簿上の原料在庫量」並に「在庫原料実量」はそれぞれ右上段、中段のとおりであるところ、国税局の算出量(右表下段)は、或る時には帳簿上の量をとり、或る時には実量をとり、また或る時にはそのどちらでもない量を認定している。現実には簿外分が同量ずつ継続して存在しているから、前述の如く、年間の損益計算上簿外分を含めて計算しても除いて計算しても変りがない、すなわち、右表の「実量」によつて損益計算をするのがもつとも正当であるが、右表の「帳簿上の量」によつて損益計算をしても全く同一の結果となるので、荻布一郎が「帳簿上の量」によつてなした計算すなわち申告は完全に正しいものである。しかるに、金沢国税局の計算のみは、その時々に応じて実量をとつたり帳簿量をとつたりしているものであつて、かくては「狂つた計算」以外の何物をも得られないのである。金沢国税局の計算は「狂つた計算」であるという所以である。或る時点において実量をとるならば、撒底的に終始実量をとらなければならない。そうすれば正当な計算が出る。また、或る時点において帳簿上の量をとるならば、終始帳簿上の量をとらなければならない。これが会計原則の第一歩である。しかし、過去の各年末における実際の量は後からこれを量ることはできない。一つか二つの時期における実際の量は或いは棚卸表とかその他の資料から得られるかも知れないが、全期にわたつて実量が得られないならば、その棚卸表等他の資料はも早や一つも使うことが許されないのである。これが会計原則の示すところなのである。蓋し、その一つ一つは或は正確な量を示しているかも知れない。にもかかわらずそれを使うと「狂つた計算」しか出て来ないからである。それは、正確な損益計算を示さないからである。どうしても実量で計算したいなら用いてはならない資料は捨てて、実地棚卸による動かない実量だけを根拠にすべきものであることを藤岡鑑定は喝破しているのである。

原判決は、「十分信頼するに足る昭和二七年度棚卸表(前同号の証第三十二号)が存する以上、これを昭和二七年分の原料費算出の基礎とした措置は当然であつて、これを目して会計原則を無視したものとはいえない。」と判示して、会計原則の示すところを全く理解していないことを曝露している。言うところの昭和二七年度棚卸表(昭和二七年末一期だけのもの)が、仮りに信頼すべきものであればある程(すなわち、それが昭和二七年末の「実量」を示しているものとすればますます)これは使用し得ない資料となるのである。何となれば、昭和二七年始の量については、右棚卸表によつたと同様の信頼すべき資料もなく、昭和二六年末、昭和二六年始、昭和二五年末、昭和二五年始にそれぞれ、右棚卸表と同一の価値を有するものが存在しない以上、右昭和二七年末のみの「実量」を示す棚卸表は原料費計算の資料として使用し得ないのである。これを使用することを会計原則は許さないのである。もちろん、このような棚卸表が財産税(一時点における財産の存在に対して課せられる)算出のためには、絶対の資料となろう。が、所得計算上は、使用してはならない資料となる。これを使用し、これを原料算出費の基礎とすることは明らかに会計原則に反する。原判決は、全く反対のことを大胆に言い切つた全く驚くべきものである。

他の繊維と異り、絹織物に関しては昭和二〇年の終戦当時から昭和三〇年頃までの一〇年間にわたり、終始不況をつづけ、転廃業続出の状態で経過したことは業界周知の事実であり、凡ての日本人が常識として知つていることである。公知の事実で検察側原告官もこれを争つていない(第一、二審全記録参照)この点レーヨンや人絹や、化繊や合繊とは全く異つた経過を示して居り、同じ天然繊維である綿ともまた異つている。この点は自明のことではあるが原審証人高瀬孝二、同大橋良作その他大多数の証人がふれているが、なかんづく右高瀬孝二が第一審公廷で明確に証言しているところであり、第一、二審の全証拠中これに反する資料は一つもない事項である。また、荻布機業場だけがその例外をなす特別事情があつたというようなことも第一、二審の全証拠中にその片りんもこれを見出すことができないのである。

以上の次第で荻布機業場は昭和二〇年から昭和三〇年以降に至る十余年の間、毎年欠損状態の所得税申告をしてきたのであつて、そして、それが承認せられていたのである。昭和二六年はもとより昭和二〇年、二一年、二二年二三年、二四年、二五年と所得収益のないものが、昭和二七年、昭和二八年に至つて、突如として多大の所得(収益)があつたという事情はどこにもなく、全然なく、想像の他の、あり得ない事項であり、原審の全証拠によつても、昭和二七年二八年に何らか収益のあつたことを少しでもうかがい知る資料は少しも存在しない。もとより、生糸業界が、昭和二七、二八年に好況に推移したこともなければ、他の同業者にして収益をあげ、所得税を納めたという事例も一つも存しない。いや、却つて、昭和二七年には極度の不況が進行し、同業者中倒産者があり、転廃業者あつたことは原審証拠中にあるが、特に一審証人高瀬孝二は生糸業界全般に関係し他の同種企業のことも述べて十分にこのことを証明している。

しかるに、一、二審判決は、何らの根きよもなく、昭和二七年分の所得は忽ちにして五四六万六四八九円であつた。昭和二八年分の所得は一六二万八二七八円であつたと認定した。絹織物業界一般の甚しい不況下において、終戦以来引つづきあえぐような操業をつづけているときに、昭和二七年に突如五四〇万という収益があることが、常識からみてもあり得ないことであり、不思議、不自然、不合理であることはさておき、昭和二八年になると突如一六〇万と少い数字になるのである。前記の通り昭和二七年二八年にこのような収益を推定させるような業界の動きは全くないのみならず、昭和二七年五四〇万が翌年はまた急減しなければならずその前もあとも収益がないということは何のことであるか、そのこと自体不自然であるが、何故このような不自然が起つたか。検事が誤つて昭和二七年末に数年前からあつた簿外糸を突然収益の変形とみなしたために昭和二七年だけ収益が出てしまつた。起訴状も原判決もそのような金銭的収益があつたといつていない。荻布機業場に右金額に相当する原料糸が在庫(簿外糸)していたと主張するのであり、国税局が機業場を急襲査察、看貫(実地棚卸)した数量(原審証拠若宮証人二〇回公判調書54問、73問、二一回119問、大橋証言八回、二七回調書)を基礎として割出しているところが、被告側もこのような原料糸が簿外糸として存在することを承認した上で収益なしとしているのであつて、この糸は企業整備令によつて中川工場を廃業閉鎖せしめられたときに、官の命令と許可のもとに現在の中島工場に引つがれ、今日に至つたものであることを一審当初の公判で申述し立証しているのである。一審の野村裁判官は、当初はそんなことがあるはずがないと考えたらしく、そんなことがあれば無罪だと称しつつ当時の富山県関係官の取調べに入り、当時の資料の取集めを始めた。証人高瀬孝二は富山県絹人絹織物調整組合の事務長であり、幸いにも戦争中から引つづき絹織物の統制調査、企業整備に従事して居り、当時の資料も法廷に提出することができた。かくして、野村裁判官の取調べにより逐一右の事実のあることが証明され順次公判廷に顕出された(高瀬証人の提出した書証参照)。すなわち、同業多数工場、特に同一地方の同一状況、同一規模の工場がほとんど廃業した中で、どうにか、操業をつづけ得られたのみ。しかし、注意すべきは、この簿外糸は決して昭和二七年、二八年の所得や収益ではない。それとは関係がないことである。それが昭和二七年分の所得や収益ではないことである。糸という形の財産として昭和二七年ないし二八年に所得された収益が荻布機業場に存在したのではなく、前年、前々年から引きつがれた糸であつて、昭和二七年も二八年も全く収益、所得がなかつたという真実である。この真実は左の各証拠によつて十分に証明されているにも拘らず、理由なくして、これを無視した原判決は甚だしい事実誤認を冒している。

イ 昭和二七年一月一日の実数(期首)

昭和一八年から保有した二二七貫の簿外があつたこと。

高瀬証言一一回(一審第一一回公判調書の略称以下同じ)二六回。

大橋証言二七回。

ロ 昭和二九年八月二四日の実数(期末)

昭和二九年八月二四日金沢国税局が被告工場において被告人側立会の下に実地棚卸をしたその数額で、

原糸 三二貫二三三匁、仕掛 二六三貫三三九匁

である。右は、

若宮証言二三回84、二一回119、二〇回54

大橋証言八回、二七回

に明らかであり、二九・八・二四付査察官宛大橋上申書に回収屑糸量と共に右数量を記載し署名捺印提出されている。

起訴状によれば、荻布機業場は昭和二七年に五四六万六四八九円の所得があり、昭和二八年には一六二万八二七八円の所得があつたといつているが、そういう所得のなかつたことを証明すべき立場にある被告人弁護人の側としては、どうしてこんな細かい数字の金額所得が算出されているのかを知らしてもらわなくては、具体的にそういう所得のないこと、具体的にどこに誤解があるかを指摘できない。それで、一審では当初から、この起訴状の数字の主張の基礎を教えていただきたいとこい願い、口頭でいくら言つても無視されるので文書でまでも申入れた。しかるに、最後まで説明も回答もなかつた。具体的に数字を出していただければ、被告弁護側も具体的に一つずつ真実を明らかに解明できる。

荻布機業場は昭和一〇年高岡市中島町三七(高岡市南方)に織機一〇〇台を以つて発足した。その後昭和一三年に高岡市中川一〇(高岡市北方)に織機二〇〇台の工場を増設したが、昭和一八年に企業整備令により転廃を命ぜられ、機械類は屑鉄として供出し、原糸仕掛糸などは中島町の現工場に引つがれ今日に至つている。なお、中川一〇の転廃した工場は現在荻布建材工場となつている次第である。この中島の現機業場は本工場と分工場(近距りではあるが)に分れ、双方の設備は織機一〇〇台であるが、老朽のため、数台の使用不能のものが含まれている。撚糸機五二八〇鍾、従業員約九〇名、製品は生糸を原料とする輸出本絹ジヨーセツト・クレープをのみ専門に製造し、「オギノ」印商標登録をうけている。

右に述べた昭和一八年に転廃を命ぜられた中川工場の原材料を引ついだ時に発生した簿外糸(原糸及仕掛糸の合計で約二五〇貫見当)が本件誤解の発生、起訴の根源であります。簿外糸というのは文字通り帳簿に記入せられていない原糸仕掛糸のことで、この簿外を引つづき保有する場合に、突然当該年分の収益や所得に見積られては、その年にありもしない収益や所得が見積られてしまうことになります。すなわち、簿外を昭和一八年から引きつづき保有してきた場合に、工場に現存する糸量でただちに昭和二七年の収益を割出してはならぬのであつて、昭和二七年の期首と期末の現存糸量から、この簿外糸量を、期首期末とも差引くか、期首期末とも差加えるかしなければ、糸量を以つて昭和二七年の年間収益とみなすことはできません。期首には除外し、期末にのみ加えれば、年間欠損を生じた昭和二七年に、五四〇万というような大きな収益があつたという誤りを生ずることになる。簿外を期首期末に加えて計算しても結論は同一ですが、簿外を期首期末から差引く計算方法をとつたのは、昭和二七年分の正確な所得損益を算出するためにはどうしても必要なことをしたのみで、何ら脱税の目的でしたことではない。昭和二七年に初めてそうしたのではなく、昭和二五年も二六年も二九年も同様にして正しい計算、正しい申告をしているのであります。国税局は査察と実地棚卸の結果、これを昭和二七年度の収益と感ちがいしたところに本件の誤りが起つたのである。そして査察の際押収した書類の中に、係員が簿外を帳簿にのせる試案としてメモしていた書きつけを曲解して、正式帳簿にはない糸がある故、脱税だという誤りにおち入つたのである。

昭和二七年末についてみると、昭和二六年には約四〇〇万円の貸倒れ(売掛代金回収不能)に会い、不況で資金ぐりが窮迫してきたため、原料糸の買入れが手控えがちとなり、資金難に追われつつ操業をつづけるために現実にある簿外糸を使つていた。帳簿上は皆無に等しいのに糸があり操業がどうにかつづいたということになり、簿外糸が非常時の役に立つていたという有様で、これを利益が上つたとみるのは全く実情と人情を無視した感覚からくる。このような簿外糸を昭和二七年分の収益の変形とゆがめて解釈したために、実際は欠損の昭和二七年分に五四〇万という大へんな収益、所得があつたことになり、不自然にも、昭和二八年にはまた全然収益、所得がないことになる。当然そうなる不自然をかくすため、守越の生糸清算取引益を昭和二八年の収益とし、昭和二八年も百万余円の収益ありとしたが、機業場としては、収益がなかつたことを認めざるをえず、これを認めている。しかも課税している。

1 被告人の所得税申告は正しい。

2 原料費に関し公正な立場で会計原則に基いてなされた藤岡鑑定人の鑑定書を正しいと見ざるを得ぬのに無視した原判決は採証の方法を誤つている。

右の通りであります。之を費目別に説明すれば、

A 原料費について

被告人の所得税申告は、

イ 申告の基礎が正しい――実地棚卸に合致している。

ロ 計数が合理的である――被告人上申書の通り。

鑑定書は、

イ 基礎を実地棚卸に置き実数を基としている。

ロ 公認会計士が感情をぬきにして公平に作つている。

ハ 計算方法は会計理論、会計原則にもとづいている。

ニ 若宮査察官及本多検察官から強く訂正を求められた鑑定人は公判廷で之を拒否し鑑定の真実を絶叫している。

そもそも原料費解明の根基は、期首及期末の実数が明らかになることによつて自ら明らかになるので原審の審理を顧みてこの二点を究明すれば次の通りであります。

a 期末の実数

本件における期末実数は幸い二九年八月二四日被告人側立会の下に国税局が被告工場において実施せる実地棚卸がある、その棚卸につき、

(1) 棚卸の実施存在は次の証拠で明らかである。

若宮証言 二十回54、73、二一回119

大橋証言 八回、二七回

大橋上申書二九・八・二四付査察官宛実地棚卸の結果の原糸、仕掛、回収屑糸量の数量確認の上記載し署名捺印して提出したるもの、この文書は重要であり、控訴審において提出命令を発せられ、押収せらるべきであつた。

(2) 実地棚卸の数額について。

原糸 三二〆二三三匁

仕掛 二六三〆三三九匁

回収屑 六〇二〆余

であつた。

右につき次の様な証拠がある。

若宮証言 二三回84、二一回119、二〇回54

大橋証言 八回、二七回

(3) 其の数額が間違いない。

イ (1)に述べた様に二九年八月二四日付で立会人大橋に数量の確認を求めた上、文書に記載せしめて上申書として徴して居る。

ロ 若宮は前項の如く証言で何度も此の数字を言つている。

ハ 若宮は「実地棚卸をするまでに荻布は糸を動かした」(二一回119、二二回29)と公判の終りに言い始めたがその事自体が実地棚卸の正しいことを示すものである。即ち自らの手で実施した実地棚卸の数額は正しかつた事を確認した結果、その数額では脱税がなかつたことが証明されるために、当初の此実地棚卸のあつたことを極力秘匿し軽視しようとしたが次第にそれが不能とみるや十五俵動かしたと新しい工夫をせねばならぬ破目に陥つたのである。

b 期首の実数

本件における期首とは二七年一月一日を言うが之の実数は確認されていないが左の証拠により二二七〆簿外を保有していた事は間違いない。(十八年から保有していた)

高瀬証言 十一回、二六回

大橋証言 二七回

簿外二二七〆(二七・一・一の)は二九年八月二四日の実地棚卸の数量に合致する。

この二二七〆に対し国税局は一八七〆(差四〇〆)というが根基は証第三二号(二七年度棚卸表と題する書面――大橋メモ)に扱つている。しかし、この三二号証は絶対に棚卸表でない。試案であり概況表にすぎず何ら実数を記したものではない。

若宮証言 二一回98

若宮作成「原糸関係消費過大計上による所得削減の実体説明書」便宜上「若宮計算書」と称す

別紙1、(1)

右ニテ三二号ニヨルコト及其ノ数字ヲ採上ゲテイルガ

大橋証言 八回

ニテ実数ヲ記シタモノデナク且期首ハ前任者カラノ引継デ直接知ラヌト言ツテイル。

若宮証言二二回212で、三二号証は試みに作つたものだというのか、の問に対し、「そうです」と答え、実数を記したものでない事を認めている。

計算上は、

期首227〆の簿外の場合に二九年八月二四日の実地棚卸に合致する。被告上申書の通り、鑑定書は227〆と187〆と両方の計算を示しているが187〆のものは不合理がある。

若宮作成の計算書は187〆を採用している為全く不合理なものとなり収支を合致させる為に糊付加算を加えたり、未回収屑量を適宜伸縮させてつじつまを合せているが計算としては全く出たら目なものとなつている。

二二回100――102,149、若宮二二回71―81、二四回増量未回収屑は根基はく弱なこと。

大橋証言 二七回20、21

高瀬証言 二六回34、35

生糸検量証明書 増量はない

以上の証こにより原料費について何らの不正がなく、申告通りが正しいことが判る。

1 二七年末の帳簿仕訳違いの件

前記期首からの簿外二二七〆(発生は一八年)の中一六〇〆余に関する二七年末の帳簿上の取扱は被告人の簿記知識の欠除によるもので何ら不正の存在しない事が明らかである。即ち企業外資産を企業資産に投入したにすぎず、何ら損益には関係はない――二重仕入をやつて居れば問題であるが其の事実はない、従つて検察官冒頭陳述三の1(イ)は全く間違つている。

鑑定書 二のホ項

鑑定書 各年度消費原料糸の計算書、註2のイ後段

藤岡証言 二五回13、14

藤岡証言 二五回15、16、17、18、19

大橋証言 八回

若宮証言 二二回212、二一回98

2 屑糸帳(二号の一)の件

国税局が証拠と称する屑糸帳は、

イ 不用紙を用いた体さい――荻布では正規簿に不用紙を用いた事なし。

ロ 内容は全工程を記載して居らぬ。

ハ 本工場、分工場全部記載されていない。

ニ 発生量は最大一日で四〇〇匁、最小一日で七五匁と記載され、浮動の激甚さは常識上了解出来ない。

ホ 二号証一の作成者、作成要領は全く不明です。

ヘ 二九年八月二四日の実地棚卸の実数に合致しない。

以上により本証こそは一片の価値なきものである事が明らかである。

大橋証言 二七回17、八回41―43

鑑定書 発生屑の検討の項

鑑定書 別表のNの三(C)経営分析による検討の項

藤岡証言 二五回22

3 原糸受払票八枚(証一の一―八)の件

本証こにより国税局は二八年末に原糸十五俵を簿外として保有し、二九年八月二四日の実地棚卸までに工場外へ持出したものであるから二九年八月二四日の棚卸は本計算解明の基礎とならぬとし、更に二八年末には右十五俵を在庫せりとして計算している。

本証に関する国税局の主張は全くデツチ上げであることが次の諸証により明らかであります。

大橋証言 二七回1―14、36―38、42―43、44―56

同 八回29、36―38

此の証拠で、はつきり局の誤認ということが出来る。にも拘らず、十五俵を持出したという局主張についてみるに持出しとした根拠、10俵については一の七欄外に「本店」とあるを「本店へ」と記載されていると誤解を生ぜしめている。

若宮二〇回54、五俵については証言なし。

持出の場所、若宮二〇回54で本店と証言しながら、

同二一回108―111にてどことも現物は確認しておらぬ。

同二二回48―50 本店になし。

同二一回117 一〇俵は本店へ行つて居る。

同二三回169―171本店へは持出せぬ。

同二三回172―176場所の確認なし。

持出の時期、若宮二二回43 税務署員の調査日(二九・七・八―十)頃、其他之に関する若宮の証言は多数あるも二転三転し持出認定の根基、場所、時期、方法等何れも証言はくい違いを生じ、且、十五俵の現物について、全然確認しておらず。(事実がないからできるはずはない)

二二回42では之はどこまでも考察の問題として証言している。

更に若宮計算書では検番二三五二番五俵を五俵全部消費したことに記載しながら、なお且、一俵残ありという記載をしている。若宮二二回93―96

又同計算書は十五俵持出を前提として作成してある為前述の如く糊加算、末回収屑の不合理な計上をして無理な計算を行つている。

4 国税局の計算方法

国税局は誤つた根基によつて、しかも無理に所得を算出しようとする為に

1 会計原則を無視した計算をやつている。

帳簿棚卸と実地棚卸がある時は実地棚卸によるべし。

2 事業は継続しているから関連年度分――本件の場合は二九年八月二四日までの計算を示すべきであるに拘らず、二七年度の原料費を過少(所得大となる)に算出している不合理性を隠ぺいする為、二八年二九年の計算提示が不可能になつている。

鑑定書 二のイ後段

藤岡証言 二五回54―57、9、12

5 鑑定人に対する鑑定書の訂正申入の件

検察官、若宮査察官から鑑定人を検察庁へ呼び出し、或は自宅訪問して、鑑定書は国税局に不利だから訂正せよと強こうに申入れたが鑑定人は断こ拒否した事実。此の事は国税局側の不合理性、不当性を物語るものであると共に鑑定書の公平を表明するものである。

三四・五・一二付藤岡義丈より本多検事宛陳述書。

藤岡証言 二五回39、40

若宮 二四回44―47

B 経費(機場用品費)について

此の科目の実体は

1 機場用品を実際に買い実名で、計上したもの

2 同 架名で計上したもの

3 接待費を実際に支出し架名で此の科目へ計上したもの

4 修繕費を実際に支出し同

であります。科目流用等の処理は個人企業の気安さ且経理知識の欠除によるに過ぎず、支出は実際に支出されたものに相違ありません。

イ 機場用品買入の架名処理について

一〇〇〇種類以上に及ぶ品目であるため当時統制の残滓が強く従つて其の買入は正規店以外、問屋の店員及ブローカーからの買入が相当大量でありました。此の様な人々は当時金沢市内だけでも七、八十名居り、其の取引方法は品物と代金の引替という方法で行われ取引上(領収証、請求書等)自分の本名を出すことを極力きらい無理に書憑を求めると架名の住所氏名を用いるのが実状でした。

大橋証言 八回、二七回

奥野証言 三二・九・四調書

ロ 修繕費の架名による計上について

老朽工場で補修を必要としたが、当時の営業状態から多大の出費が許されずび縫的補修に止めた訳ですがそれだけに、後日外形的に工事施行が認め難く計算上従来しばしば、論争の対象となり且否認されていたのです。且この様に少しでも安くやろうと特殊の人にやらせたので、事務的に整つたものにならぬので、比較的口数の多い機場用品を流用し之を計上したものであります。

要堺証言 三二・九・四付調書

安養モータース商会領収証

ハ 接待費の架名による計上について

当時の繊維業界は一般に派手な飲食遊興等の接待をしていた事は世間周知の事で、荻布も大勢に順応しなければ現実の取引に支障を来すので支出した。勿論この様な支出ですから領収書の取れぬものがあつたが、支出はあくまで真実でした。

ニ 会計処理の実際について

前述、機業場用品、修理、接待の諸費用はすべて現金を必要としたのと、突然が多かつたのです。

機業場は御馬出支店との取引で毎月の資金くりは入金は全部手形であるため之を割引くか、信手による借入をせねばならぬ状態でした。そのため毎月の中途で支払うのは原糸代と小口雑件のみで他は一切月末払を原則としていたので当座の残金は〇に近い僅少なものしか残つて居りませんでした。山本証言二六回23及びその他の全問答

C 生糸清算取引益について

生糸清算取引は守越が石黒平吉名を以つてやつたものに相違ありませんが、判示は全く違つた所論を為して居ります。

証八号(二八年九月二二日付亀井より荻布宛書状)

内容に示す通り二九・九・二〇付日本経済新聞記載の記事に関する照会に対する返事で何等特殊のものは無く一般的の状況を知らせて来たものに過ぎない。

証二九号(二八・九・一五付荻布より亀井宛書面)

本状は荻布の特殊事情による糸代の遅延に関する陳謝と決済に不安なき旨(亀井織物部に債権――一、七五九、九七五円――あるに付万一の時は之と相殺も結構ですと申述べている)を連絡したものに過ぎず何等他意の無いものである。

証二九号証中の其他の書簡について

清算取引に関するもので荻布宛になつているものがあるとの事であるが此事については小松原証言で明らかな通り荻布気付石黒とすべきを御中とした事は誤りであり荻布へ宛てる意思のなかつた点を明らかにしています。

証二九号中守越より小松原宛書簡について

(1) 名宛の問題は前記の通り荻布気付とすべきものとの証言にて明らかなとおり、現に荻布気付石黒宛の書簡も存在することによつても充分了解出来得るはずである。

(2) 文中の主人を裁判官は荻布一郎と勝手に解しているのは明らかな誤りである。

裁判の様な固苦しい場合は別として日常荻布における主人とは宗太郎を指し一郎は若主人と呼称されている事は世間周知のとおりである。特に従業員で宗太郎時代からのものは全部宗太郎を主人(は常に内部では大将という)一郎を若主人(内部的には若大将という)と言い世間の人も同じ呼び方をしています。

亀井、小松原氏はしばしば来宅して居り一郎、宗太郎とその都度会つて居りますのでよく此の呼称を知つて居り(小松原以外の人も知つている)ますし彼自身も宗太郎、一郎に夫々御主人様、若主人様といつて話して居ります。

処で文中の主人は宗太郎であります。機業場の事務所は宗太郎の居宅と隣接(というよりは同一家屋の中の一部分である)しているので、宗太郎は食後の休けい時、其他一日に何度となく店へ顔を出し四方山話をして行くのが常です。一郎は中川に住居するため一日に一度来るだけ(然も二八、九年頃はあまり来なかつた)で建材工場に常住して居りました、現在も。

問題の守越が小松原へ電話をしていた時に壁間の戸をあけて入つて来たのは外ならぬ宗太郎です、そして手紙の通りの事を注意したのです、こんな訳で此点全く人違いでありその様に間違つた事を基に判断されたのではたまつたものではありません。

判示一審(2)において裁判官は守越から小松原宛書翰中の「主人」を荻布一郎と誤断している事については上述の通りであるが、此の事については、検察官調書(守越訊問第六回目昭和三一・二・二五日)の第二項に、「今お示しの私から亀井株式会社の小松原宛の書翰の中に私が此の石黒名の流用をするについて荻布の主人に了解を得た様な文言が書いてありますが、其の手紙の中の主人というのは荻布宗太郎さんの事であります……」とはつきり説明されて居ります、此点からも裁判官の誤断ということが明りようであります。

又査察官調書(守越第十回、昭和二九・一〇・二三)の十二問答に

問 此の手紙の中にある主人とは誰ですか。

答 それは多分、宗太郎さんであつたと思います。しかし、機業場の事ですから第一段階としては当然一郎さんに話していると思います。

とあります、之からしても守越は当初から文中の主人は宗太郎なりと陳述していることが、はつきり致します。

(3) 守越は前述の通りで此時一郎とは会つて居りません、宗太郎からは取引の基本契約を尊重すべき事につき注告を受けましたが命令ではありません。

守越は、石黒a/cの六〇万余を代金の一部に充当して居りません、手紙にも示してある通り「従而石黒a/c分はあくまでそのまま存置していただき、実質御流用願い度いのです……決して振替等の処理をなさらぬ様に…」で決済するまでの見返りとして実質流用願つただけで充当していません。それは所有主が異るからであります。

次に判示は被告人荻布一郎の別途預金より其の残金を……といつているが別途預金という如何にも隠し預金の様な印象を受けますが之は御馬出支店の機業場の当座預金から支払はれているものであります。

(4) 清算取引益を生糸代の決済に充当する事を一郎と相談し其の承認を得たと判示しているが、此事については前記(3)及(2)で記載のとおり、守越は自分の清算益金は荻布機業場の生糸代一部遅延の見返りとして流用を申出てこそ居れ、決済に充当はして居らない事は明確であります。又此の様な資金操作については一郎とは全然相談して居らぬことは前記のとおりです。従つて一郎は清算取引に関係なしと解すべきであるのに原判決はこの事実を認めながら、理由なく一郎の取引と強弁するという甚しい誤解をしているものであります。

(5) 一郎は使用人の財産を借用する様な事の無い事は一審判示の通りであるが、本件に於ては前述の通り一郎とは一回も話合つた事が無く、宗太郎と話合つただけ(注告を受けたというべき)であり、然も守越が職務の責任上、貸倒による資金繰の窮迫に伴い自己の財産を一時流用願つただけの事(貸倒では無く守越の債権を見返りとして糸代金決済の一時延期)であります。

(6) 一郎は当時営業資金以外の預金は全然ありません。宗太郎なら相当のものを有して居りました事は山本証言でも明らかな通りです。この様にはつきりしているにも拘らず、判示は宗太郎のものを一郎のものと誤認して居ります。

機業場は当時資金繰が窮くつだつた事は諸証の明示する通りであります。又機業場としては、係員が職責上自発的の発意に対して之を受け入れたとしても何ら異とすべき事でありません、即ち係員が自己の職務遂行の為にやる行為だからです。然もそれは、私有財産の無償譲与ではなく、債務延期の為に遊休債権を一時見返りとして提供しただけの事である。

(7) 守越は将来も石黒a/cによる清算取引を企図していたので、其の計画に変更が無い限り口座を其のまま存続する様、小松原宛に申し送つた事は何ら異とするに足らない。其の守越の企図を荻布機業場の営業上の一計画だと、妄断は事実誤認も甚だしく、何を根基としての妄断か全く奇怪である。

本件に於て論難されている守越の清算取引益金を見返として一時決済延期を願つた生糸代金については、其後完済され守越の清算益金は厳存して居ります。判示は事実誤認というか歪曲も甚だしいといわねばなりません。

原料費関係で検察官の冒頭陳述は間違であり且つ不合理であることは既述の諸点で明らかであり、特に鑑定人はそれが間違であり不合理である事を明確に証言している。

藤岡証言 一七回8、二五回29、10

原料費計算の根基は二九・八・二四の実地棚卸以外にないことが次の証こから明らかとなる。

鑑定書 二のイ理由2

藤岡証言 二五回31、47、10、一七回7

若宮 二三回134にて自認している。

荻布は二七年、二八年でみずから所得を過大に算出しているという変な事になる。藤岡証言一七回20

原料費に於ける荻布の計算誤謬は脱税とは思わないという藤岡二五回28の証言があり書面がないものでも支出は支出であるという藤岡二五回37の証言にも留意されたい。また、銀行からみた二七、二八年頃の荻布機業場は赤字経営であつたことは山本二六回37、43、31に明らかである。銀行から見た当時荻布機業場に預金余力なかつたことは、山本二六回23、31の証言がある。

鑑定人の本多検事宛の陳述書について

昭和三四年四月初旬藤岡鑑定人を富山検察庁へよび出し、若宮査察官から前後四時間半にわたり、さきに提出された鑑定書(昭和三三年九月二日付)につき、あれでは都合が悪いから国税局の希望通りに訂正してもらいたいとの申入あり、その後更に重ねて要求ありたるに付、鑑定人は昭和三四年五月二一日付を以つて鑑定は間違いなく、従つて訂正の意思なき旨を本多検察官宛に提出しております。

○昭和三四・五・二一付藤岡鑑定人より本多検察官宛陳述書。

○昭和三五・二・八藤岡証人の証言。

第三点 原判決は刑事訴訟法四一一条第二号の刑の量定が甚しく不当であつて、原判決を破毀しなければ著しく正義に反する場合にあたる。

現行税制の実際は、法による納税とはいえない。税法の通りに納税されていると目しうべき実態はない。裁量による納税であり、行政的に処理されている。税務行政として考えねばならぬ実状で、当局により適当に処理されている面が相当に多いのである。国家予算も税法通りの納税額を予定して立てられているのではなく、税法通りの全額がもし徴収されたならば、非常に過大な歳入となつて予算の根本が狂つてくることは明らかである。税法通りの納税の何分の一かしか納税されないとみているからこそ、毎年自然増収税額五千億などというとんでもないことになつている次第と思われる。また、税法通りの納税が行われたとすれば、例外的に税法通り完納の傾向にある(社用的厚生費的な脱税も相当あるとしても)俸給生活者の源泉徴収税の税率などはもつと低く、各個人の源泉徴収額ははるか少額で済むことになるわけである。要するに行政による納税であり、話合いによる納税であり、全般的にみれば税務吏員の裁量に委されている納税である。運用がこのようであるからこそ、税法通り強行されたら成立たない事業、納税のための倒産が続出するはずの処を、そのような破綻を免れ、一種運用の妙で解決されているともいわねばならない実状であろう。そのため機械的に処理されている一部俸給生活者の課税は不公平に過重となつているとせねばならない。本件のような事業者の所得税納税においても、事は俸給生活者ほど単純でないので、税務署がすぐに荻布機業場の収益、所得を、確認しえなかつた事情はわかるのであり、よく判らない以上一応疑つてみることも当然ともいえる。かくして一応の疑いはかけられ、突然の査察とまでも発展したのであるが、その不意打の査察、押収の結果は何も脱税の確証がなかつたようなことになつてしまつた。そこで、普通ならば、納税者荻布一郎を対象として税務吏の裁量的話合いがはじまり、そこで税額を納税者荻布一郎も納得して納税するという順序をふみ、解決するはずである。荻布のような経過をたどつた納税問題も、九〇パーセント以上右のように解決され、刑事事件などにならないですんでいるといえる。行政による納税と申上げる所以である。しかるに本件においては、荻布側において実際欠損しているものを収益があつたとは何事かと、強く反ばつ的態度に出たために本件となつてしまつたものである。すなわち、話合いや裁量による納税であることを知らず、長い者にまかれることを知らず、生一本に激怒したために本件となつたもので、主観的には終始一貫正義心に燃えている被告である。このように、日本の税務行政に対する無智と無収益で所得税納税義務なきことを明らかにする帳簿も整備されていないのに正直一本やりでふんまんをぶちまけるそのやり方のため悲境におち入つたのであることを考えると、そのために多大の重加算税をとられ、根きよのない重税を既に納め、非常な苦しみを受けているのに、更に原審の如き重い刑を科する必要はなく、酷に失するものと考える。以上、国税局側の感情から生じた事件であることも十分御明察を賜つていると考えるので、この点からも刑を軽くする必要は絶対的で、原判決の刑の量定は甚しく不当であると思料せざるを得ぬ。

荻布家は富山県における誰も知つている旧家、素封家であり戦前は多数の汽船、航洋船を所有し、莫大な資産があつたが、戦後財産税で資産を失つている。もとより名門、素封家で先祖以来未だかつて一度びも脱税の嫌疑などを受けた者の居ない家がらである。これらの点からも本件発生の経緯は推察できる、苦痛を察知しうる気の毒な事件である。 以上

(昭和三十六年十月二十五日受理)

○昭和三六年(あ)第二一七九号

被告人 荻布一郎

同 守越七蔵

弁護人定塚道雄の上告趣意補充(その一)

業務主荻布一郎を何故処罰すべきではないか、処罰できないのであるか、その理由をなるべく正確に述べます。

このような業務主たる自然人の処罰規定があることは自明であるが、その規定自体が無効ではないか、無効とするのが正当ではないか、その前提としてこのような規定の性質から検討したい。

1 非刑事責任説 業務責任の本質を如何に理解するかについては種々の見解が分かれるが、業務主責任を刑事責任ではないとする見解から、検討してみよう。この見解に属するものとして、ライヒ租税法の業務主の責任についてのべたフオン・リスト(Von Liszt)の「他人の犯罪のために負担する責任(Haftwng)」であつて、「刑罰ではなく税法上の理由によつて生ずる私法上の責任である」(Liszt, Lehrbuch des Dewtschen Strafrechts, 13~14, Aufl,, S.250)とする見解や、リスト・シユミツト(Liszt-Schmidt)やゴルトシユミツトらによつて主張された「他人の行為に対する公法上の責任」(Liszt-Schmidt Lehrbuch des Dewtschen Strafrechts, Bd. 1.26, Aufl., S.369. Amn 121 Goldschnsidt, Deliktsobligationen des Verwaltungssechts, 1905, S.237.)であるとする見解があり、わが国では、一部の大審院判例や亀川氏が行政処分ないし保安処分であるとする見解を主張している。(大判昭和一五・九・二一、法律新聞四六二九号、亀川・司法協会雑誌二三巻七号六五七頁)。代理人や被傭者などの行為は、たとい、その行為の実質的な経済上の効果が業務主に帰属するものであつても、刑法上は業務主の行為とはみとめられない。ところで、他人の犯罪行為によつて刑罰を科せられないというのは近代刑法の大原則である。そこで、業務主の責任は、刑事責任ではないとするのであろう。

近代刑法の大原則である責任主義の原則に忠実であろうとする意図はよくわかる。しかし、わが国の業務主責任については、法はあくまでも、罰金、科料という刑罰の形式を採用しているのである。佐伯博士のいわれるように、「法律が特に刑罰という形式を選んで用いたという事実の含蓄する意味に強いて眼を閉じようとする非現実的態度」をとつてはならない。(佐伯・「経済犯罪の理論」新法学の課題、昭和一七年三〇六―七頁。なお、大谷教授も、「事業主がわが実定法上刑罰を科せられ、被処罰者たらしめる法的現実は如何ともすることが出来ない」とされる(大谷「両罰規定に関する一考察」法と政治一巻三―四号。五(頁))。われわれは業務主荻布一郎の責任が刑事責任であることを否定することはできない(なお業務主の二次元的代当責任を刑罰(Strafubel)であるとするのは、ドイツの判例通説である(vgl., Hartung, a.a.O., S.252))。

2 無過失責任説 業務主の責任は他人の行為による無過失責任で、取締目的のために犯罪主体と刑罰主体の同一を要求する刑法上の大原則の例外をみとめたものであるとする見解で、わが国においては従来通説的地位を占め、判例もこの立場をとつていたのである、(泉二・刑事学研究五八六頁、六〇三頁。牧野・重訂日本刑法(上)九六頁、滝川幸辰・犯罪論序説一六頁、定塚道雄・日本経済刑法概論、三九四頁、河村「租税犯における責任」(四)税法学五五号四―五頁等。大審判昭和一五年九・二一法律新聞四六二九号、大審昭和一七・七・二四、刑集二一巻三三〇頁等)。しかしてこの見解の間にも多少のニユアンスの差があるがおおむね取締目的の徹底とか報償責任的思想にもとづいている。業務主責任に関する規定の設けられている犯罪の実体は経済上の事項に関するから、その犯罪行為による経済上の効果(利益)は、その行為者の属する事業の主体に帰属するのを常とする。したがつて、もしこのような場合に犯罪主体と刑罰主体の一致という原則を堅持し、その行為者たる従業者のみを処罰するに止め、業務主を刑事責任の外に置くとすれは、業務主は従業者の犠牲において不当に利得し、ひいては事業のために不当な利得をはかろうとして予め従業者中に犠牲者を予定して犯罪行為を敢行させるという危険さえも考えられる。そこで、このような危険を防止するという取締上の必要から、租税犯等の犯罪については、その従業者の行為につき、特に業務主に罰金という刑罰を科することにしたのであると考えるのである(最初に両罰規定を設けた資本逃避防止法およびその後身としての外国為替管理法の業務主責任についての大蔵省の、立案者の説明(野田卯一編・外国為替管理法解説九一頁参照)、津田実「税法罰則の解説下」財政経済弘報九五号、河村・「租税犯における責任(四)」)。たしかに租税犯はその経済的効果が業務主に帰属する典型であろう。したがつて、所説のいうような危険を防止するために業務主に責任を追及する実際的必要性を否定することはできまい。しかし、だからといつて他人の行為による無過失責任をみとめてもよいということにはならない。福田教授もいわれるように、ともかく刑罰である以上はその倫理的意義を全く無視することは許されないのであつて、単なる取締目的から近代刑法の責任主義の原則に対する例外をみとめることはできないのである(福田・行政刑法五四頁)。違反防止の完壁を期することが重要なことはもちろんであるが、八木博士のいわれるように、このような政策上の要求を満たし功利的な目的を達せむがために、刑法における刑罰属人性の原則、個人責任の原則を破り、刑法における責任主義の原則を放棄し、他人の行為につき、過失なきものを処罰することはみとめることはできないのである(八木・業務主体処罰規定の研究七一頁)。また、八木博士の指摘されるように、功利の追及が道義の要請を破るという道義的責任論よりする批判は固よりのこと、行為者の犯罪性を考え、その刑罰適応性を慮り、社会防衛を念慮する立場からするも重大な批判を受けざるを得ないことなのである(八木・右同七一頁)。ヒツペル(Hippel)はいう。「責任なき処罰は不正であり、不正であるが故に、たとえそれが国家に金銭収入をもたらすとも、それは国家を害することになる」と(Hippel, Deutsches Ltrafrecht, Bd. 2.1930. S.287.)。

すでに詳しく論じた如く、租税刑法は基本的に刑法であり、責任主義は租税刑法の分野にも適用される基本原則である。租税刑法は、租税収入を確保するために取締を徹底するということから他人の行為による無過失責任を特別に要求するような特殊性を有するものではない。租税刑法の刑法的性格は業務主から税金代りの罰金を取るという報償責任的思想と相容れないのである。行政的合目的主義は、責任主義の原則に優先することはできないのである。また、租税犯には社会的反倫理性があるのであり、業務に関して従業者らによつて租税法違反行為が行われたという関係から業務主に対して科する刑罰たる罰金の倫理的基礎を無視することは当を得ない。また、他方、取締目的の見地からも、業務主に無過失責任を追及することが合目的的であるかは疑問である。無過失責任論者は、「無過失的にも処罰を加えることに因つて直接又は間接に法規遵奉についての注意が喚起される」(牧野・重訂「日本刑法」(上)九七頁)とするが、八木博士もいわれる如く、「法規遵奉についての注意が喚起せられる」ためには、処罰を受ける者が自らその注意を喚起し、一層違反防止の努力を為すの余地がなければならぬのであり、無過失処罰によつてはこのような余地はないので、自己の最善をつくし客観的にも相当な注意をなして、しかも違反の発生したばあいにおいても処罰を免れないとするならば、国民は徒に法の過酷を難じ、違反防止の努力をむしろ無意味とすら感ずることにもなる。一層の注意をなすことによつてさけることのできたであろう違反行為の発生したばあいに、これを処罰するかぎりにおいて初めて刑罰は意味があるのであり、基礎を保つのである。すなわち、過失を責めるという意味において、将来一層の注意を喚起することができるのであり、それが取締の目的にも適応し、規定の政策的意義も生かされるのである。このような処罰であつてはじめて世の理解を完うすることができるのであるまいか(八木・業務主体処罰規定の研究七二頁。なお、福田・行政刑法五四頁)。

また、この見解によると、従業者の違反行為につき実際行為者である従業者と業務主の双方を処罰する両罰規定は同一の犯罪につき行為者と業務主との両者の処罰をみとめたということにもなる(福田・行政刑法五四頁)。

3 過失責任説 すでに検討した如く、業務主の責任を他人の犯罪行為による無過失責任であるとする見解は採用することはできず、業務主の責任も自己の行為による過失責任であることを否定することはできない。過失責任説は今日では多くの学者によつて支持され(美濃部・行政刑法概論二九頁以下、田中(二)・行政法総論四一八頁、小野・刑事判例評釈集四巻三〇〇頁、八木・業務主体処罰規定の研究八〇頁以下、福田・行政刑法五四頁等)、学説の有力な動向となつてきているものであるが、その間にも過失推定説・擬制説等種々の見解の対立がみられるのである。

まず、美濃部博士の見解を検討しよう。博士は、罪責なくして刑罰を科せられることは刑罰の性質とは絶対に相容れない所であり、犯罪者と受罰者とは必然に相合致することを要するとされた後、事業主の処罰は事業主に犯則者に代つて罪責を負担せしめているものではなく、事業主は事業経営の衝に当り其の事業に従事する集団生活の全体に対して、主裁者たり統制者たる地位に在るもので、その統制者としての事業主は、総ての従業員をして、犯則行為なからしめるよう万全の注意を為すべき義務を負担している。犯則行為を為した者は従業員であつて事業主ではないとしても、それは事業主が従業員をして犯則行為を為さしめないように注意し監督すべき義務を怠つた結果と見なければならぬのであつて、国家に対しては専ら事業主の義務違反であり、したがつて、事業主の犯罪を構成するのである。それが犯罪たる所以は、一に注意義務の懈怠に在る。しかして注意義務の懈怠であるから、その性質上必然に結果犯であつて、故意犯でなく、その事業の実施に関し違法の結果の発生したばあいには、それが不可抗力に基づいたことが証明されない限り、当然に注意義務を怠つたと推定せられ、その義務違反に対して罪責を負担せしめられるのであるとされるのである(美濃部・行政刑法概論二九―三〇頁)。

事業の統制者であるから従業員をして犯則行為をなさしめないように注意し監督する義務があり、そのような注意義務を懈怠した過失責任として業務主責任を把えることは、倫理的要素と行政的合目的要素を調和したものといえる(なお、団藤「いわゆる代罰、両罰規定に関する一考察」時報一六巻一二号、一九頁。福田・行政刑法五五頁)。事業の統制者である事業主が、事業経営に際して従業員をして犯則行為をなからしめるよう注意監督する社会的義務を負わされているとみるのは今日の社会通念であるとさえいえよう。したがつて、このような注意義務を懈怠すればそこに社会倫理的非難が生ずる(ちなみにドイツの一九一八年の価格吊上禁止令は、使用者又は他の従業者が可罰行為をなしたばあい、経営の所有者がその監督義務の懈怠により当該違反行為を防止しなかつたことにつき、一年以下の軽懲役刑と五〇〇〇マルク以下の罰金の併科または選択を決定している)。そしてまた、業務主にこのような注意監督責任を負担せしめることは行政目的を達成せしめるに合目的的であるからである。事業主が不可抗力を証明しないかぎり、注意義務の懈怠を推定するということも、このような監督義務における過失の立証の困難ということを考慮すれば、背理的な見解であるとはいえないであろう。しかし、博士の見解にはさらに検討しなければならない点がある。それは博士が、「苟も事業主として其の事業を主宰し運営するの地位にある以上は、未成年者でも唖者でも、心神喪失者又は耗弱者でも、原則としては自ら事業主としての責に任ぜねばならぬ」とされ、「殊に法律で従業者の外に事業者をも処罰すべきものと定めているに拘らず、事業主が心神喪失者又は一四才未満である場合には、全く事業経営に付き責任を負う者がないとすることが法律の趣旨に反することは疑を容れない所であるから、刑法三九条乃至四一条の適用は当然除外される」(美濃部・「経済事犯の刑事責任について」法協六一巻六号九頁、同・経済刑法の基礎理論三一頁)とされる点である。刑法三九条ないし四一条の適用を除外し、たとえば一四才未満の刑事未成年者でも刑罰を科せられるならば、他人の行為による無過失責任をみとめることとどれ程の実質的差異があるだろうか。博士の見解は、脱税犯についての「義務違反者は納税義務者に外ならないのであるから、其の義務違反が何人の行為によつて惹起せられたかを問わず、納税義務者が義務違反者として、罪責に任ぜねばならぬのである。主観的には未成年者や禁治産者は自ら不正手段を行つたものではなく全然与知しない所であるとしても」、「尚お、自ら犯罪者としての責を負わねばならぬ」(美濃部・行政刑法論一七五頁)とする博士の考え方とよく論理的に一貫しているものであり、無過失責任説と何ら変らないものであるといわなければならない。博士のような、脱税犯の処罰は倫理性、罪悪性とは関係のない不法行為にもとづく損害賠償であるとする考え方は、むしろ、無過失責任論と結びつくものである。脱税犯に対する罰金を単に形式的な刑事責任であつて実質的には損害賠償という民事責任であるとしながら、業務主責任については罪責なければ刑罰なしとする刑法理論を強調するのは、体系的矛盾を感じさせるものがあることを否定できない。美濃部博士の見解は小野博士の批評をかりるならば、「形の上ではすべての刑事責任は自己の犯罪に因る責任であるという刑法理論を標傍しながら、実は其の根本に在る道義的責任の理念を完全に抹殺してしまうことになるのである」(小野・国家学会雑誌五三巻八号一〇九頁)。

つぎに過失擬制説を小野博士の見解を中心に検討しよう。小野博士は、両罰規定を「一個の構成要件的事実に依り二重に刑事責任を生ずる特殊の場合である。しかも業務主は行為者に非ずして其の責任を負うのであるから、当該行為についての故意とか過失とか問題ではない。その意味で刑法第三八条第一項に謂ゆる『特別の規定』と解さなければならない」(小野・「国家総動員法四八条に依る業務主の責任と連続犯」法協六一巻三号、四三一―二頁)。とされつつも、「しかし、凡そ刑事責任の根底には道義的意味がなければならない。従業者の行為につき業務主が責任を負うのは業務主であるからであり、業務主として其の選任監督の義務があるからである」。それは、「法理的には何処までも監督不行届の責任である(小野右同・同頁)」とされる。刑事責任の根底には道義的意味がなければならない。しかし、博士はこのような業務主の責任は現行法上擬制されているとされるのである。すなわち博士は、「しかし現行法の概念構成としてはその監督不行届の事実又は其れにおける過失の存在を責任の条件としていない。業務主であるかぎり当然其の責任を負うのである。いわば監督不行届は法律上当然有るものと推定されている。謂ゆるPraesumptio Juris et de Jureである(小野・右同、同頁)」とされているのである。

博士の見解が主張された当時においては、「司令官野戦ノ時ニ在リテ隊兵ヲ率ヰ敵ニ降リタルトキハ其ノ尽スベキ所ヲ尽クシタル場合ト雖六月以下ノ禁錮ニ処ス」といつた陸軍刑法四一条の規定があつたことによつても推察されるように、今日の道義的観念とは相異があり、国家主義的色彩が濃厚であり、事業主が国家に対する関係において、その企業に関してきわめて高度の責任を有することを認めなければならなかつた。したがつて、従業者の違反行為の発生が事業主にとつて不可抗力的なばあいにも、監督義務が絶対的なものであるとすれば、やはり一種の監督不行届であるし、そこに道義的非難の基礎を見出すということもかならずしも不可能ではなかつたといえよう(団藤・「いわゆる代罰、両罰規定に関する一考察」、前出の一九頁)。しかして当時においては、自己と身分上・社会上・職務上一定の関係にあるものから犯罪者を出したのは申し訳ないという、徳川封建時代の道義意識から歴史的に発展してきた、博士のいわれる日本道義的な責任観念がわが国に特殊な社会心理的意識としてあり(小野・法協六〇巻六号一五七三頁以下)、このような社会心理的地盤が事業主の責任を法律上擬制されているものとしながら、そこに道義的な要素を見出すことを可能にしていたことは否定できないであろう。(団藤教授も、「縁座、連座等の制度は取締目的を多分にもつていることはいうまでもないが、しかし同時に、自己と――身分上・社会上・職務上等の――一定の関係をもつている者の間から重大な犯罪者を出したことが申訳ないという道義的意味の含まれていることが看取されなければならない。個人倫理から言えばそれは導かれ得ないが、共同体的倫理からはかようなことがいわれ得るとおもう。現行法における代罰・両罰規定――特に事業主のそれ――についても或る程度に同様のことがいわれ得るのではあるまいか」という見方をされている(団藤・いわゆる代罰、両罰規定に関する一考察、前出一九頁)。わが国の両罰規定ほど高度で広汎なものは現在の世界法制の上では異例であることを考え合わせてみると封建的道義意識に沿革を有するいわゆる日本道義的な責任観念が、業務主責任に対する国民の法意識――監督不行届を反道義的なものであるとする――との脈絡を有するとすることも、理由がないとはいえないであろう)。また両罰規定の条文じたいを一見すると擬制説を採つているようにみえる。博士の見解は当時としては、道義的責任の理念と合目的性の要求との調和を試みたものとして妥当なものであつたといえよう。しかし、今日では不可抗的なばあいにも刑事責任をみとめるということは、刑事責任の趣旨と相容れないものといわなければならない。不可抗的な場合に刑罰を基礎づける社会倫理的な非難を加えることはできない。不可抗的のばあいすなわち無過失のばあいにも刑事責任をみとめることは責任主義の大原則と相容れないものであり、ことに道義的責任論の立場からは不当としなければならない。また取締目的からいつても、業務主の監督責任を絶対的なものとして不可抗力のばあいにもみとめることは、徒らに法の苛酷を難じさせ、かえつて違反防止へ努力する熱意をさまさせることも予想され、過ぎたるは及ばざるの感がある。(団藤教授も、「取締目的からいつても事業主の監督が十分に行われたならば事足るべく、監督の全然不可能な場合にまで事業主の責任を認めるのは行きすぎではなかろうか。具体的な監督義務懈怠を要件とすることが事業主の責任の道義的意味を一層明かにするゆえんでもある」とされる――団藤・いわゆる代罰、両罰規定に関する一考察)。過失擬制説は小野博士じしん、「法律的には従業者の違反行為が其の構成要件である。其の意味で他人の行為に基く責任であるとも謂える」(小野・「国家総動員法第四八条に依る業務主の責任と競合」法協六〇巻九号一一四頁)とされているように他人の行為による無過失責任をみとめる見解と実質的には同様であり、採用することはできない。

以上各種の内外学説については、板倉宏氏「租税刑法の基本問題」に詳細であるが、要するに、事業主荻布一郎の過失の推定ということは、成法の解釈としては、いかんながら到底是認できず、否定せざるをえない。また所得税法の規定じたいからみても、到底、刑法三八条一項の過失犯処罰の特別規定とすることはできない。そのような特別規定とみうるような形式を全く具えていないのである。しかも、過失なき人を罰することは、いかなる場合においても、たとい取締上の必要切実であると仮定しても、なお、常に不正である(飯塚・刑法論攻五八八頁参照)。無過失の人を罰する、過失推定を敢えてする、それは理論の仮面をかぶつているだけで、合理的根拠を全く欠くものである。論理にももとつている。事業主業務主荻布一郎は刑罰を受くべき一切の理由がない。Pfund氏(Pfund. S.17)に従えば原審はこれを不正に処罰せんとしたものであるということになる。守越七蔵の処罰で十分に目的を達しうるにも拘わらず、刑罰万能思想に基く無効な両罰規定を適用して荻布一郎を処罰せんとするものである。ところが、この刑罰万能思想たるや、憲法の禁止するところであり、刑法理論の絶対容認しないところである。けだし、憲法と刑法が不動のものとする罪刑法定に正面から挑戦しているからである。取締上も必要がないのに、錯覚に基いて、無過失の業務主荻布一郎を処罰せんとするもので、この適用法条自体完全に法律としての効力がないのである。税法罰則において、この種の規定は、取締上も必要がないのであるが、特別刑法として刑法八条、三八条一項に明らかに反しているから、無罪たるべきことは明らかである。イタリヤ憲法二七条には、「刑事責任は人的である」という明文があるが、明文がなくとも罪刑法定を採る憲法は凡て当然のこととしてこれを是認している。日本国憲法違反は明らかである。

かりに必要ありとするならば、あるいは放任すべきでないとするならば、行政法上の過料にすべきであり、不法行為上の損害賠償を賦課すべきである。いわんや、租税犯は、重い加算税をみとめ、法定利りつをはるかに上まわる過大な利息を科することを許しており、また、本件も更正決定を不当とする納税者荻布一郎に、とも角それを徴収した後でなければ更正決定取消の民事訴訟も起させぬという税法に基いて納税せしめてしまつているのである。行政法上の手段を以つて補いえないものではなく、どうしても刑罰をもつてする必要があるのではなく、全く不当、不法なものである。行為者守越との二重処罰である点も、刑事法上疑わくの存するところである。業務主の取締は刑罰以外の方法制裁によらなければならない。過料によつても取締目的の見地からみての不足は全くない。刑法の破かい、刑事司法の破かいをさけたい。その考えからこの書面を提出しました。なお一九三七年第四次国際刑法会議は厳格な刑事責任の属人性を決議しており、西ドイツ一九五六年刑法改正草案二条は「責任なければ刑罰なし」の明文を設けて、荻布一郎の場合の可罰性を否定している。日本刑法も同一の原則に立つていると解するの他なく、そうでないとすることは到底できない。 以上

(昭和三十七年九月四日付)

○昭和三六年(あ)第二一七九号

被告人 荻布一郎

同 守越七蔵

弁護人定塚道雄の上告趣意補充(その二)

(一)

一、代罰・両罰・法人処罰などの規定について

ここで問題とする代罰規定、両罰規定、法人の処罰規定などは、多種、多様にわたる形式で立法されているものを総称したのであるが、その主要なもの一つ二つをはじめに示しておくことが説明を進めるために必要であると思う。

代罰規定としては、労働組合法三一条、

「法人又は人の代理人、同居者、雇人その他の従業者がその法人又は人の業務に関し前段前条の違反行為をしたときは、その法人又は人は、自己の指揮に出たのでないことの故をもつてその処罰を免れることができない。

前条前段の規定は、その者が法人であるときは、理事、取締役その他の法人の業務を執行する役員に、未成年者又は禁治産者であるときは、その法定代理人に適用する。但し、営業に関して、成年者と同一の能力を有する未成年者については、この限りでない」

の如きがあり、

両罰規定、法人の処罰としては所得税法七二条、

「法人の代表者(第一条第六項に規定する法人でない社団又は財団の管理人を含む。)又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務又は財産に関して第六十九条乃至第七十条の違反行為をなしたときは、その行為者を罰する外、その法人又は人に対し、各本条の罰金刑を科する。

第一条六項に規定する法人でない社団又は財団について前項の規定の適用がある場合においては、代表者又は管理人がその訴訟行為につき当該社団又は財団を代表するほか、法人を被告人又は被疑者とする場合の刑事訴訟に関する法律の規定を準用する」

の如きがある。

その他、各種法規に、各種各様の形式で、数多くいままで存在していたし、現在も存在しているのであつて(労調法三九条、労基法一二一条、旧国家総動員法四八条など)その型を類別整理することも、一つの仕事ではあるが、ここで論じようとする事項ではない。故に、単に比較的多い形式を示すに止めたが、この種の規定は経済、労働、警察、租税など、特別刑法の全分野にわたつて存在している。ここに示した立法の形式に明らかなように、この種の規定はひとまとめに、特別刑法における犯罪主体と刑罰主体とが異る場合の諸規定という言葉で概括することができる形式をもつているのであるが、こういう諸規定についての刑法理論を追究してみようとするわけである。

しかし、そもそも犯罪主体と刑罰主体が異なるというようなことは、それ自体甚だしい矛盾である。それはある人が他人の犯罪によつて処罰されるということであり、罪責がないけれども刑罰を科するということともなるのであつて、いかにこのような法規があつても、その法規自体無効のものであるという立論が、早くもその形式から成立すべきであり、また、処罰の必要がないのに行われた立法でないかがその実質について疑われるべきである。

もつとも、処罰の必要を疑う卑見については一言しておくべきことがある。例えば、冒頭に掲記した労働組合法三一条などの両罰規定について、次のようにいわれていることは明らかにしておく必要がある。「一般市民刑法にいはゆる個人責任の原則に対する修正的例外を規定しているもので」「労働刑法における責任性における特徴は、あらためていうまでもなく、一般的・抽象的に自由であり・平等であると思料された個別的意思の主体を前提として構想された自由主義刑法が、ブルジヨア市民法原理の対自的修正として現われた団体主義の法原理にたつ<危機的立法>たる労働法によつて、――すなわち、集団的従属労働関係=階級関係にまで構成された従属的労働関係のもとにある労働者〔階級〕のための法益を確保し・保障することを機能とする、労働刑法の質的な特殊性を表現しているものにほかならないのである」(熊倉武「労働刑法」労働法講座一巻一四五、一四六頁)と。すなわち、両罰規定などは労働者階級の利益を確保し保障するためには有効なもの、必要なもので、労働刑法の質的な特殊性のゆえに特別扱いされねばならぬ、無効などとはとんでもないというわけである。しかしながら、この種の法規は何も労働法や労働階級のために関してのみ立法されているのではなく、電気事業法・瓦斯事業法・漁業法・鉱業法などにもあり、租税にも、経済にも、警察にもあり、国家総動員のためにもあつたことで、決して労働階級のためのみの特殊なものではない。そして、租税刑法においても、経済刑法においても、租税についてだけは必要だ、経済統制についてだけは必要だというふうにいわれたもので、ここでは労働階級の法益だけは特別扱いというふうに聞えるけれども、代罰や両罰規定を正当化しようとする人はいつでもそのような主張の仕方をしたということは明らかに記録されているものである。その主張の仕方の点で共通していたのである。要するに、木をみて森をみない主張で、このような局部に捉われて不法な刑罰を出さないためにも、刑法理論に照らしてみる必要があり、そうすることによつて、実は刑罰に価しない事項ではなかつたかという反省を生むよすがともなるし、刑罰の必要が実際にはなかつたことも判り、刑法理論に従うことの正しさが再認識されることになると思うのである。

二、私の見解

犯罪とは何かという問を起して、莫然と観察すれば、生起する社会現象の一つにすぎないこととなろうが、伝統に根ざす社会感情にそむく行為のうちで、絶対にかつ明瞭に許すべからざる非難に価する、刑罰という強い非難に価するもののみが犯罪である、といつてよいと思う。

刑罰を科することが、絶体にかつ明瞭に必要とせられているかどうかを判別する標識として、第一に責任性の要素が考えられる。それは、責任性がなければ、それだけでもう犯罪ではないという意味で、要素といわれるものでその犯人の心理に立入つて刑罰という非難を加えねばならぬ心理状態で行われたのでなければ、犯罪として取扱うことは許されないという意味である。刑法三八条一項に明文上の根拠があるのであつて、民法七〇九条と異り、原則として過失の程度では損害賠償責任はあるが、刑事責任はない、ということを示して居り、また無過失の場合は、いかなる場合でも刑罰に処せられないということを含む規定である。前記の代罰・両罰などは、過失犯処罰規定でないことは形式上疑いなく、無過失の処罰も厳禁されているので、この規定は規定じたい無効である。第二に、その行為が法秩序全体の精神に反しているときに、違法性の存在をみとめるのであるが、この違法性がなければ犯罪ではない点で犯罪の成立要素である。不法行為はすべてこの違法性の存在をみとめるのであるが、この違法性がなければ犯罪ではない点で犯罪の成立要素である。不法行為はすべてこの違法性を必要としており、民刑共通の分野であつて、いずれも明文はない(刑法三五条を明文とみることはできるが、)が、当然のことである。このような責任性と違法性がみとめられても、第三に刑罰規定がなければ、犯罪ではない。構成要件該当性の要素であつて、不法行為の成立には全く法条を必要としないのと比べて、刑法特有の要素である。責任性と違法性と構成要件該当性の三つの要素は、その一つを欠いても犯罪を成立せしめぬとの考え方から、私は、犯罪とは責任能力者または限定責任能力者の内面的には違法性があり、外面的には法定せられた構成要件に該当する有責行為である、と定義するのであるが、犯罪三要素説によるこのような定義は、犯罪の成立を非常に少いものとするのであり、刑罰を科することは特殊例外の場合だという結論となる。私は、このような罪刑法定の思想のうちに新しい刑法の進路をみようとする。すなわち、刑罰の縮少、刑罰の消滅が理想であり、刑法を消滅させることが刑法の目的である。罪刑法定の終局の姿をそこにみようとする。そのためには、民法その他の私法において(民事法廷においてといつても同じである)不法行為に対する損害賠償の賦課が十分に行われ、行政法において行政罰が適当に行われなくてはならないのであつて、不法行為法において懲罰的損害賠償exemplary damages, Punitive damagesが漸次わが国でも実現されることが望ましいし、行政法が行政罰を十分に活用することが望ましいのである。ところが、この望ましい進歩の方向をたどらないで行政法が、刑罰の分野、刑法の分野に逆に侵入して、刑罰を縮少しようとする罪刑法定の理想をまひさせ、刑罰拡張の不当を敢えて推進しつつある現状である。この憂うべき行政刑法の傾向の一つとして、この代罰責任、法人の犯罪能力などの問題も派生したものである。

刑法と不法行為法との関係、罰刑法定の支柱としての損害賠償、ことに懲罰的損害賠償は、従来刑法において論ぜられていないため、突飛の感をあたえてはとの心配から一言することを許されたいのであるが、この損害賠償と刑事司法ないし刑法とは、決して無関係ではないし、無関係であつてはならない。田中和夫氏の次の一文から、このことを察知していただけたと願うものである。それば、「多忙を極めている検事には気がつかない犯罪が沢山あり、また気がついても重大な犯罪でない限り一々これを起訴するわけではないので、被害者たる私人の訴えた不法行為の訴において懲罰的損害賠償を与えることによつて、非行をより完全に処罰し、犯罪ないし非行の予防をより全たからしめることができる。そして、民事訴訟で被害者に実害の補償以上のものを与えて非行の予防に役立たせるというやり方は、連邦議会も特許権侵害(35 USCA 67)や反トラスト法違反(15 USCA 15)等の場合に採用している――これらの二つの場合には、被害者からの訴において、その受けた損害の三倍の損害賠償を与える――のであつて、不当な行為の抑圧、予防のために有用な手段である。」このことをここで詳しく説くべき場所ではないが、私はやはり、行政罰との関係、不法行為・損害賠償との関係を通じてこの問題を明らかにしてゆく必要があるものと考えている。

刑法は他人の行為について罰せられないことを保障する。また、刑法が犯罪の主体として予定しているのは自然人だけであつて、法人や団体はこれに入らない。特別刑法にはこれに反する規定があるためこれを問題とするのではあるが、人のみが犯罰の主体であることは動かない。現行刑法は、自然人と法人のうち、犯罪の主体となりうるものは自然人のみで、法人に刑罰を科するなどということは刑法典のどこにもないし、正しい刑法理論は法人に刑罰を科しえないという結論をもつている。犯罪成立の三要素には法人の場合には絶体に充たしえない責任という心理的要素が存在しており、当然に、法人に犯罪能力のないことを刑法理論は明らかに示していることになる。責任能力ある自然人は、犯罪主体たると同時に刑罰主体となるが、法人には犯罪能力なく、従つて犯罪主体となることはない。特別規定をもつて例外として刑罰主体となるが如き法規があるのは、多分に必要でない刑罰を規定したものとして、それが法律としての効力をもたないとせらるべき理由をもつている。それは、社会の犯罪観念を混乱におとし入れ、刑罰万能思想に途を開き、危険な道程に足をふみ入れているものとして、刑法理論により排除せらるべき対象である。

法人処罰規定についていわれる、“行為者が起訴または処罰せられたかに関係なく”、“また行為者の死亡により影響を受けないで法人は処罰されるのだ”という言い方“事業主は無過失で刑事責任を負い、証拠もいらぬのだ”という無理な解釈がすでに規定自体の不法性を示している。正当な刑法理論は処罰の正当性を否定する。この場合、その処罰がいかに久しく、いかに多く行われたか、行われているかに捉らわれてはならない。民法その他私法の場合のように、慣習法は処罰の理由とならぬからである。かえつて、これらの処罰についてのより多くの反省は、人をして社会の必要な範囲を超えて、法人処罰が甚だしく拡張されてしまつたことの不当を自認せしめるに至つているものと思われる。絶対にかつ明瞭に必要な刑罰は、自然人については考えうるが、法人についてはこれを考える余地がない。自然人に対する処罰のみで常に必要にしてかつ十分なことがやがては了解されるのである。ことに刑法三八条一項の要求する責任性の要素は、法人や事業主たる個人において常に欠けており、法人や「人」の犯罪能力は明らかに否定せられねばならぬが、従つて刑罰能力も当然にないのである。犯罪能力はないが刑罰能力があるなどということ自体、とんでもない話であり、悪魔の如き非道を内容としている。法人や事業主たる個人の処罰規定は、刑法理論の容認し得ない性質のものであり、法人犯罪・無過失事業主犯罪ということは存在しえない。空想に基く処罰である。無過失なれど刑事責任あり、というに至つては、不法行為とさえもならぬものを犯罪とすることにもなり、過失さえ罰してはならぬとする刑法においていえることではない。何人もその不合理をみとめると思う。行為者について証拠さえあれば、そしてそれが法人の従業員の業務としてのものであることの証拠さえあれば、それだけで法人犯罪とみとめるというのも、刑事司法の諸原理を破壊するものであり、理由なく破壊するものであり、必要のない犯罪を偽造するものである。これが私の見解である。

これを法人犯罪・法人処罰について考えてみると、そもそも不法行為についても、犯罪についても、代表ということはないのである。代表とか代理とかは、普通の法律行為にのみ存在することであつて、機関の不法行為が法人の不法行為となるということはなく、機関の犯行が法人の犯行となるということもないことである。不法行為については代表なく、犯罪行為についても代表ということはない。会社の業務執行に関し故意を以つて犯罪を実行した者は、自ら犯罪行為者として刑罰責任に服すべきであつて、それはあたかも、会社の業務執行に関し過失を以つて他人の権利を侵害し損害を生ぜしめたものが、自から不法行為者として、これが損害賠償の責任に任ずべきであるのと同様である。代理は意思表示についてのみ存在できる観念であるから、代理の法則は意思表示を要素とする法律行為に関してのみ適用できるのであつて、意思表示を要素としない不法行為にも、犯罪行為にも、これを適用することはできないのである。従つて代理人、代表者、従業員などが行つた不法行為に対する賠償、犯罪に対する刑罰は、いかなる事情があつても代理の法則により、本人たる法人にそれが帰せしめられることはないのである。民法四四条一項は、理事その他の代理人が、その職務を行うにつき他人に加えた不法行為上の損害に対し、法人自からその責に任ずべきことを規定しているのであるが、民法四四条の「職務を行うに付き」は、民法七一五条一項の「其事業の執行に付き」と同じ意味に解すべきであつて、民法四四条は法人の不法行為能力を認めたものではなく、いわんや法人の犯罪能力とは何ら関連しない規定である。

(一) 過去に存した無数の諸規定の分類整理としては、池田克、「特別刑法における犯罪主体と刑罰主体の異なる場合の帰納的考察」(司法資料一八九号)昭和九年。があり、明治初年以来のこの種法規を示し外国の場合と比較しつつ、徳川時代以前からのわが国に特殊な社会心理的な地盤が、この種法規のはんらんと関係があるのではないかを示唆するものとしては、団藤重光、「いわゆる代罰両規定に関する一考察」法律時報一六巻一二号、昭和一九年がある。

(二) 田中和夫氏の論文「英米における懲罰的損害賠償」(損害賠償責任の研究、中、八八五頁以下)は、行為者を懲罰するために、通常の損害賠償に附加して科せられているこの賠償についての貴重な研究であつて、わが国の慰藉料との関係、犯罪ないし非行との関係にも論及している。これによる、被害者の救済、被害者の正当な満足は人間愛の精神に合致するものがあり、懲罪的に加害者に作用することと相まつて、法律の企図する正義の理念に適合するものであると思われる。

(二)

一、法人の犯罪能力

犯罪行為というのは、生理的人間の行態についていうのであつて、性質上自然人だけが為し得る行為である。これを前提として責任性、違法性、構成要件該当性という分析も行われている。イタリヤ憲法二七条の「刑事責任は人的である」という規定は、当然のことを規定したものであり、その明文の存否に拘らず凡ての国の憲法において、憲法上の原則として承認されているものである。何人も他人の犯罪行為によつて処罰されることはないのであり、罪責なければ刑罰はないのであるから、法人には犯罪能力がないと結論されるほかはない。故に、多くの判例は、法人には犯罪能力がないという見解をいくたびも繰返してやまないのである。かくして、法人の犯罪能力が否定されるならば、法人の刑事責任は他人の犯罪による責任だということにならざるを得ない次第であり、既述のようにそのような処罰法規は無効とせられねばならないわけである。

法人の犯罪能力を否定した判例の中に、「法人ハ無形人ニシテ唯タ其ノ目的ノ範囲内ニ於テ人格ヲ享有スルニ過キサルヲ以テ犯罪ノ主体タル能力ヲ有セサルヲ原則トシ、法律ノ明文ヲ以テ特ニ犯罪ノ主体トシタル場合ニ非サレハ刑事上ノ責任ヲ負ハサルノミナラス……」(大判明三六・七・三刑録九巻一二〇二頁)というのがあるが、これを以つて法律上の明文を以つて特に犯罪の主体と規定しさえすれば、その法規によつて直ちに法人の犯罪能力が是認されるという意味に解すべきではない。このような解釈は道理に反するのみでなく、その後の判例は法人の処罰規定を目して法人の犯罪能力を認めたものではない、としているのである。かくして、犯罪主体と刑罰主体とが異る場合という不合理に坐するのであるが、判例のおち入つたこの不合理は、この法人処罰規定が法の根本原理および憲法に違反し当然無効であることを明らかにしないことから発する。その無効規定であることを明らかにしない限り、全く是正の途を閉されている重大な不合理であることはすでに述べた。

自然人が法人の機関として行う行為は、民法その他私法の領域においても、行政法の領域においても法人自体に効力を発生せしめるのであり、機関である自然人の行為は、当然に法人の行為とみられるべきで、機関たる自然人の行為と法人自体とを分離すべきでない。法人の行為が自然人の行為と同様でないということは、法人の行為能力を否定する理由とはならない(木村亀二・刑法総論一五二頁)。刑法の領域においても法人自体に効力を発生せしむべきである、と論ずるものがある。しかしながら、私法においても、行政法においても、法律的な構成として行為の効果が法人自体に帰属するとしているのみであつて、行為自体と行為の帰属とは異るのである。自然人の行為が法人に帰属せしめられるのは、法律行為におけると、不法行為におけると、犯罪行為におけるとによつて、当然異るべきである。それぞれ法律の構成を異にしているからである。公法私法における法律行為の効果が法人に帰せられているから、刑法においてもそうでなければならぬということにならないのは、刑罰責任の根拠が非難可能性であり、それは機関たる自然人については考えうるが、法人については考える余地がない。また、不法行為法において、機関たる自然人の不法行為が法人に帰属せしめられる場合があるからといつて、直ちに、刑法においても、機関たる自然人の犯罪が法人に帰属せしめられることにはならない。両者は原理と法則を異にしつつ、深く関連しているのであつて、いかなる意味においても同質のものではないから、刑法において是認されない限り、不法行為における是認は、刑法を左右しないのである。いわんや、民法四四条などの存在にも拘わらず、法人の不法行為能力を否定するを以て正当とすべきこと既述の如くであるにおいておや、ということになる(板倉宏、租税刑法の其本問題一五一頁以下参照)。

次に、法人と罰金刑との関係について言及しておきたい。大判昭和八・六・二〇新聞三五八八号に、「我現行法ノ下ニ在テハ刑事責任ノ観念及自由刑ヲ主タル刑罰トスル点等ニ稽ヘ法人ノ犯罪能力ヲ否定シ法人ノ代表者カ法人ノ為罪ヲ犯シタル場合ハ法人ヲ処罰スヘキモノニ非スシテ該代表者ヲ処罰スヘキモノト解セサルヘカラス只法人ノ代表者其ノ他ノ従業員等カ法人業務ニ関スル犯罪ニ付法人ニ責任ヲ負ハシムヘキ処罰規定存スルモ是レ行政的取締ヲ目的トスル刑罰規定ニシテ例外ノミ原判決ノ認定シタル事実ハ被告等ハ所論会社ノ取締役ニシテ同会社ノ害損填補ノ目的ヲ以テ不足証明書ヲ騙取セントシタリト謂フニ在ルヲ以テ従令其ノ目的ハ会社ノ利益ヲ計ル為ナリトスルモ詐欺罪ハ個人タル被告等ニ対シテ成立スルコト勿論ナリ」というものがある。この判決において、「是レ行政的取締ヲ目的トスル刑罰規定ニシテ例外ノミ」とし、罰金刑の法人処罰規定とみているように解されるのであるが、行政的取締の目的のためには、行政罰たる過料によるべきであつて、判旨の如く、行政的取締を目的とする刑罰規定が当然に許されるべきいわれはない。法人の取締、行政的取締は、常に刑罰以外の制裁によらねばならない。刑罰責任は自己の自然人としての責任のみであり、他人の行為による責任ではない。個人的なものであり、一身に専属するものである。西ドイツでは一九五七年競争制限に関する法律四一条、一九五四年経済処罰法などが、法人その他の団体に対する取締のために罰金刑という刑罰を科さないで、行政罪により、過料を科することを定めている。また法人の取締のためには刑罰を科さない、刑罰としての罰金とは異る制裁を科するという原理が貫かれている。西ドイツ一九五六年刑法改正草案二条は、責任なければ刑罰なしの原則を明示しており、一九三七年第四次国際刑法会議も、イタリヤ憲法におけると同じく、刑事責任の厳格な属人性を決議しているのであつて、法人の取締は刑罰以外の制裁によらなければならないのである。また、この判決は、冒頭に「我現行法ノ下ニ在テハ刑事責任ノ観念及自由刑ヲ主タル刑罰トスル点……」といつているのは賛成致しかねるのである。近代刑法以前においては生命刑が主たる刑罰であつたという意味において、我が現行法は自由刑を主たる刑罰とするということは言いうるけれども、現に死刑も存在しているし、禁錮刑は殆んどなくこれを主たる刑罰とはいえないのであり、拘留刑は軽微である点を考えれば、懲役刑が主たる刑罰という意味で言つているのかも知れないが、いずれにしても主たる刑罰とそうでない刑罰とを区別する根拠がないのみならず、意味もないのであつて、ただ言い得ることは刑法九条の刑罰は、すべて犯罪能力のない法人には科し得ない。それは性質上科し得ないということでなければならぬ。自由刑云々といつてあたかも罰金刑その他の財産刑ならば、これを科しうるかの如き表現は許すことができない。この判決に対し、金沢文雄氏(同氏著法人の刑事責任・両罰規定一八頁以下)は、「この判決は刑事責任の観念及び自由刑を主とする刑罰体系から法人の犯罪能力を否定するが、これは我国の通説的見解となつている。しかし、刑罰体系の問題は今日理論的にあまり重要でないと思われる。何故なら、法人に対して自由刑は科し得ないが罰金刑は科し得るのであり、そして特別法には罰金刑の規定が多く、特に法人に対して直接罰金刑を適用する規定が激増しているからである。問題はむしろ刑罰の本質の理解に関することであり、これは結局現行刑法における刑事責任の本質の問題に帰着する。従つて、法人の犯罪能力は判決がいうように「刑事責任の観念」から考察されなければならない。そこで「刑事責任の観念」とは何かが問題となるが判例はこれについて特に理論を展開しているわけではない。いわゆる道義的責任論によれば、責任非難は倫理的人格に対してのみなされるから、かような人格を有しない法人は責任の主体となりえないとされるが、判例も恐らくこのような立場に立つものと考えられる。他方、社会的責任論においても従来は自然人たる行為者の性格的危険性のみが考慮されており、従つて、「刑法の主観主義は、要するに自然人たる犯人についての理論たるに止まるもの」であつた。しかし、社会的責任論の見地においては法人の刑事責任を肯定することがむしろ論理的ではないかと思う。何故なら、社会的統一体としての法人の社会的危険性は個人のそれに劣らず社会防衛の措置を必要とさせるからである」と説かれた。

しかし、法人に対し自由刑は科し得ないが罰金刑は科しうる――という考え方そのものが否定されねばならぬのであつて、それは法人には自由刑であれ罰金刑であれ、一切の刑罰は科しえないのであるから――と訂正されねばならぬと思う。また、法人に対し直接罰金刑を科する規定が激増しているのは、憂えるべき現象であり、それが法人に対する刑罰を是認する根拠とはなりえない性質のものであり、刑罰を以つてする必要がないのではないかの検討と、行政罰を以つてすることの工夫とが要請されている性格のものである。判例はこれについて特に理論を展開していないといわれるが、判例はこの種の成文法を常にうのみにするという悲しむべき態度を以つて一貫しているのであつて、その無効を宣言することによつてのみ、正当な立場を回復しうるのに、これをなさないものである。そうして、学説もまたこの判例の誤れる態度を批判しないために、極度に理論の混乱を生じ、不必要な煩わしい混迷に陥つているのが、この問題の特色なのである。

次に、行政刑法においては、行政犯の特殊性の故に法人の犯罪能力もみとめることができるとする行政法学者美濃部達吉氏の独特の見解が、古くから主張されていた。しかし、この学説は、刑法九条と八条を無視して、刑罰の分野に不法侵入した行政法なのであつて、行政法ないし行政処罰法において考究せられるべきは、過料その他の行政罰についてであり、刑法九条の刑罰については常に刑法総則による考慮を失つてはならないのである。それは、罪刑法定の内に含まれている刑罰を、それが死刑や懲役のように重いものではないから、大いに拡張しても差支えないという、誤つた刑罰拡張の線に沿うて刑法を破壊するものであり、著しく刑法の目的ないし理想を阻害しているもので、看過できない弊害を既に生じているものである(法人についての以上の所論は法人格のない団体にもそのままあてはまる)。

二、代罰責任は規定されることにより有効となるか

(1) 行為者以外の法人なり個人なりを処罰する規定がある以上、何故処罰できるのかという理由の探究が行われてもやむを得ない。判例学説は従来無過失責任説をとつてきた。この法人・個人(事業主と総称する)は、事業主自身の罪責により処罰されるのではなく、その処罰には事業主自身の行為ないし意思は何ら関係しない、とするのである。他人の犯罪のために負担する責任であるから刑罰ではないという非刑事責任説も存在するが、規定の無効を断じないで、刑法九条の刑罰の課せられることを是認しながらその性質非刑事責任であると説いてみたところで、その説くところは無意味に近い。かくして無過失刑事責任説に傾くわけである。代罰責任規定の規定形式が、正に純然たる他人の犯罪による処罰を意味する無過失刑事責任の法意を表わしているのであるが、少しく判例についてみると、事業主の故意過失を問わぬ法意であるとするもの(大判昭一七・九・一六刑集二一巻四一七頁)、従業員の雇入または選任についての不注意やもしくはその監督不行届について事業主を処罰するものではないとするもの(大判昭和一七・七・二四刑集二一巻三一九頁)、従業員の違反行為の遂行につき、事業主の行為も意思も何ら介入せず、単に行為者の違反につき処罰をうくるとするもの(大判昭和一六・一二・一八刑集二〇巻七〇九頁)、などがあつて、正に完全に無過失刑事責任を追及する趣旨であることを表明している。

しかしながら、これからの事業主処罰規定は規定自体無効である。もし、無効でないとすれば、事業主は他人の行為により無過失で刑事責任を負うことになるのであり、犯罪主体と刑罰主体の同一を要求する刑法の原則を破ることになるが、そのようなことは取締の必要がいかに存在したと仮定しても、到底みとめえないのである。責任なき処罰は不正であり、法規を無効としない限り、かかる不正の貫徹を避けえないのである。行政上のいかなる必要も、他人の行為による無過失責任を特別に要求することはできないし、個人責任の原則・刑罰属人性の原則の放棄を要求することはできないのであるから、かかる法規は絶対に無効である。

(2) 学説・判例の一部に過失擬制説がある。監督上の責任を擬制するものであり、過失を擬制によりみとめるもので、監督不行届は法律上当然あるものとする。というのであるが、これでは、過失のない事業主を罰する点において変りはなく、刑罰は真実有責なものにのみ課せらるべきであるから、そうでない者にこれを課する規定として当然に無効である。また、同一犯行につき二重の処罰を行うものである点においても前者と異ならない結果となる。判例の中には、従属責任を説き(最判昭和二八・一・二七刑集七巻六四頁)、行為者の責任は当然随伴すると説く(東京高判昭和二九・一・二一・刑集七巻一五頁)ものがあるが、要するに従来の無過失責任説に帰するものである。

次に、不作為犯説ともいうべき「結局、両罰規定は業務主につき不純性不作為犯と過失犯との両者を規定した復合的構成要件ではないかと考えられる」(金沢文雄・前掲書六九頁)とする新説がある。同一規定を故意犯であると同時に過失犯であるとみることに無理があり、刑罰法規についての拡張ないし類推の強度なものとしてこの解釈を避けるべき理由があると思う。

(3) 過失推定説と解されている最判昭和三二・二・二七刑集十一巻三一一三頁は、「事業主として右行為者等の選任、監督その他違反行為を防止するために必要な注意を尽さなかつた過失の存在を推定した規定と解すべ」きであるとする。これに対し、田中、斎藤、下飯坂各裁判官の補足意見が附せられているのであるが、金沢氏はこれらの補足意見を適切に批評していられる(金沢・前掲書六三・六四頁)。そして、結局多数意見による判決の立場をもつて正当とされるのであるが、問題は法規の形式が何ら過失犯処罰規定となつていないのみならず、過失を推定するという趣旨すらも現わされていない点である。この点では、田中、斎藤、下飯坂意見が力説する通り、正に無過失刑事責任の形態と解される。ただこの無理な不要な形態を有効であるとする点に誤りがあるが、刑罰法規はその形式を無視して便宜に拡張し、任意に類推することは、許し難いところであるので、この過失推定判例も、金沢氏の所説もこれを採るに由なきものである。単に合理的であるということならば、単純な過失犯であると主張し、過失の立証を検事に要求する飯塚敏夫説(飯塚、従業員の価格違反と事業主の責任日法九巻二号六四頁昭和九年)の方がはるかに合理的である。しかしながら、そもそも過失犯の規定であるということが、到底根拠づけられないので、等しく空しい所論となるのである。無過失刑事責任というのは、故意どころか過失もないのに処罰する規定だといつているだけで、過失犯であるとしているのではない。過失犯には刑法三八条一項但書に該当することを確認せしめるだけの形式が必要である。旧来の判例・通説に従い無過失刑事責任規定と解するのほかはなく、そしてかかる規定は完全に無効のものであると断ずるほかに、何ら解決の途をもたないのが、この問題の特質である。 以上

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